架橋までの長い道のり その1

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甲斐の猿橋 

 出発点

関が原の領地再配分で、吉川家は周防岩国に移封になった。当時の時代背景として、まだまだ戦火が起きる可能性があり早急に堅牢な城郭を造る必要があった。 初代岩国藩主、吉川広家は山陽道を監視でき、錦川を外堀とする横山に上級武士を住まわせ、錦川対岸の錦見に中級・下級武士の住む地域とした。 錦川には城門橋を造り、錦川の氾濫で浅瀬が続く沿岸一帯を埋めてて田畑の干拓する都市計画を立てた。 この都市計画が出発点であった
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平成24年11月11日、第三回錦帯橋国際シンポジウム in 江戸
早稲田大学大隈記念講堂

吉川家16代当主 吉川重幹氏の講演より抜粋
完成まで約70年かかった

(広家の都市計画から既に約60年経過)
(1)初代藩主 吉川広家 都市計画立案 17世紀初期
(2)二代藩主 吉川広正 架橋を試みるが洪水で全て流失
        1657年、架橋・流失の記述が
        「御用所日記」「岩国年代記」「御取次所日記」にある
岩国藩3代藩主 吉川広嘉の時代
寛文3年(1663年)8月28日、父の隠居により家督を継ぐ。 錦川は難所だが、父の代で何度も架橋・流失して面目を潰した鬱憤を晴らす必要がある。 結果的には瀬戸内沿岸二千町歩を干拓し耕地を拡大し、領札を発行した。 また、創意工夫で錦帯橋の構想を練り上げ、名君と言われている。

(3)三代藩主 吉川広嘉 錦帯橋創建 延宝 元年10月1日(1673年)
(4)三橋脚崩落     延宝 2年 5月28日(1674年)
(5)三代藩主 吉川広嘉 再建 延宝 2年10月15日(1674年)
         (276年間、安定)
17世紀初頭の日本の橋
当然、調べた。
岩国徴古館の資料によると、吉川広嘉公の側近は次の者達である。

真田七内

記録所役人で、錦帯橋設計に従事。2代目藩主、吉川広正公の川下中津の隠居屋敷にお供。萩屋敷建設

小河内太兵衛

3代藩主吉川広嘉公の近習。錦帯橋の模型製作。火薬で弓矢を飛ばす道具実験。

宇都宮藤二郎

殿様への取次ぎ役。普請奉行。最初の錦帯橋で奉行を務めた。

明の亡命僧独立

寛文4年(1664年)頃より医師として薬の調合を行っていた。
寛文11年(1671年) 中国杭州西湖の冊子を3代藩主吉川広嘉公に紹介している。

岩国図書館の「世界の橋」などを参考に、 (参考)日本の橋 1673年以前写真で見る橋の歴史を調査した
彼らの立場で検討する。
条件1 川の中に柱を立てない
条件2 洪水に堪えられる
条件3 200mのスパンを持つ
条件4 垂直方向の重量に堪えられる
柱橋
京都の宇治橋
条件1に抵触する。
先代の藩主が架橋して流失した。条件2も駄目。


桁橋
栃木県 日光 神橋
条件3に抵触する。
川幅が短いと桁橋でも飛ばせる。200mになると川の中に柱を立てる事になるか。


桁橋
香川県 金比羅 鞘橋
条件3に抵触する。
川幅が短いと桁橋でも飛ばせる。200mになると川の中に柱を立てる事になるか。


太鼓橋
青森県 恐山 太鼓橋
条件3に抵触する。
梁と桁を組み合わせた構造である。川幅が短いと梁・桁橋でも飛ばせる。


石積アーチ橋
沖縄県 首里 天女橋
柱は立ててないが、横壁面が水中に沈んでおり、横壁面で洪水を塞ぐ事になる。 アーチのスパンが短いと洪水を直接受け止める面積が広くなり、洪水に弱い(条件2,3)。垂直方向の重力には強い。


石積アーチ橋
小石川 後楽園 円月橋
柱は立ててないが、横壁面が水中に沈んでおり、横壁面で洪水を塞ぐ事になる。 アーチのスパンが短いと洪水を直接受け止める面積が広くなり、洪水に弱い(条件2,3)。垂直方向の重力には強い。


石積アーチ橋
長崎 眼鏡橋
柱は立ててないが、横壁面が水中に沈んでおり、横壁面で洪水を塞ぐ事になる。 アーチのスパンが短いと洪水を直接受け止める面積が広くなり、洪水に弱い(条件2,3)。垂直方向の重力には強い。


石積アーチ橋 柱は立ててないが、横壁面が水中に沈んでおり、横壁面で洪水を塞ぐ事になる。 水を直接受け止める面積が広く洪水に弱い(条件2,3)。垂直方向の重力には強い。


刎橋
山梨県 大月 猿橋
条件1,2はクリアだが、スパンを長くできるか不明。また重量に堪えられるか不安が残る(条件4)。


刎橋
加賀藩 黒部川 愛本橋
条件1,2はクリアだが、スパンを長くできるか不明。200mをこの構造で一跨ぎは無理だろう。


17世紀初頭の中国の橋
岩国図書館の「世界の橋」などを参考に、 (参考)中国の橋 1673年以前を調査した。
当時も明の亡命僧独立や長崎で購入する図書を通じて、ある程度分かっていたと考える

石造アーチ橋
中国 蘇州 寒山寺 江村橋(楓橋)
水中に柱は立ててないが、スパンが短い。この当時の石造アーチ橋は10〜20mが多い。運河・湖など洪水が起きにくい場所に建設しているようだ


石造アーチ橋
中国 蘇州 宝帯橋
水中に柱はないが、アーチの半径が短く多数の柱のように水中にある。運河で船を引っ張る足場に使っているので 洪水による流木や転石の心配はないようだ。


拱橋
中国 浙江省 泰順 三条橋
川に柱を立てず、洪水対策ができている。スパンが40m〜50mで川幅の狭い岩盤地形のところには使えそうだ。錦川の200mでは無理。


石造アーチ橋
中国河北 石家荘市 永通橋 
アーチ橋の横面が洪水を堰き止める弱点を小穴を空けることで防いでいる.基礎のアーチの半径がどこまで長くできるか興味があるが、この時代、 長くても40m〜50mが限界のようだ。


石造アーチ橋
中国 北京 盧溝橋 
複数アーチを組み合わせ、かつ橋脚部分は水を切る形状である。洪水を堰き止める横面が水に浸からない上部にあり実用性が高い。


西湖の挿絵
中国の造拱橋や石造アーチ橋、日本の猿橋、愛本橋は、特定条件の場所では最適だが、スパンが200mと長い錦川には架けられない。 そんな時、明の亡命僧、独立が三代藩主、吉川広嘉公に「西湖志」の挿絵を示し、スパンが短い橋でも島伝いに橋を架ければ大丈夫と ヒントを出した。