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錦帯橋史の目次
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錦帯橋史
その5 (131 - 160頁) / 全347頁
岩国徴古館所蔵
永田 新之允著述(元、岩国町町長) 岩国観光協会1953年2月発行
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第14世の錦帯橋は、外見は旧錦帯橋と同じにして、内部は鉄筋コンクリートで強靭にしたらどうか。その代わり、 旧錦帯橋の構造を正確に再現した縮小モデルを岩国郷土博物館に陳列することを提案したい。
第7章 創建、再建当時の論功行賞、建築工費及び改築年度
一、商品授与及び祝宴の古記録
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広嘉公は時々、遠謀のきく万谷奥の庵から工事の進捗を眺めていた。今も当時のままの柱や部屋が残っている。 岩邑年代記の日誌によれば、延宝元年10月12日普請の労苦に対して行賞があった。
呉服二宛 宇都宮杢乃之允、祖式宗右衛門
呉服一宛 中島一郎右衛門、など(以下、本文参照のこと)
岩国藩の「御用所日記」によると、
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10月3日 橋成就にて今日より往来する
10月11日 橋成就に付き功労者達に食事を披露
食事の後、褒美品の下賜があった。
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この大工事は鍬入れから僅か3ヶ月で完成した。封建時代下の厳令で能率の上がること甚だしい。
二、橋普請諸経費勘定
一、米二十六石六斗
番匠役三千百九十八人分
二、銀二貫九百二十匁
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三、木引六百八十一人
四、船大工
五、杣(山林)
六、御弓方
七、御鉄砲方
八、褒美の呉服
九、楮、橋敷柱、梁の鼻なけ板
十、松千八百九本、栂平物。木材は倉谷山、阿志那山、城山、石材は山北、鳴子岩、大内迫、中津
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三、橋普請の工費及び労力に対する藩の武家並みに庶民の負担方法
橋普請の費用は、藩臣以下庶民、寺院に至るまで応分出資、または労力提供していた
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身分に応じて提供する米、使役を定義
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藩士は毎年禄高十石に対して玄米七合七勺、商工は店先1間毎に、毎年三合七勺、農家は一石につき二升七合五勺であった
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四、明治以来の工費、労務費、材料費の大観
明治以降は吉川藩は廃止になり、錦帯橋の維持管理は岩国町の負担と山口県の補助で行ってきた
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昭和4年、9年の錦帯橋全橋架け替え費用は約10万円であったが、昭和25年の再建工事の見積もりは物価が高騰して1億1800万円と巨額である
五、創建以来の架け替え、板張替えの年度
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吉川報効会、桂芳樹氏が古文書を調査した架け替え年度の表
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延宝2年の創建以来、架け替えは五十三回、板の張替えは三十二回行っている。
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昭和九年の架け替えの時、東端の橋柱に安永七年架け替えの木材、楠が残っていた。 150年間堪えてきた古材を用いて火鉢をつくり吉川子爵に贈呈した
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六、創建以来、改良の部分
一、欄干
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二、敷板
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三、拱肋部
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第八章 「錦帯橋」の橋名由来
一、元禄以前はとりとりの名
元禄以前は、大橋、岩国大橋など様々であった。
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二、錦帯の字は漢詩からきたか
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三、錦帯橋の定名は創建以来34、35年の頃から
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大阪の時枝左門が、元文五年(1740)書いた旅日記「節用集」に防州岩国錦帯橋と出ている
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尾張の菱屋半七が、享保二年(1717)書いた紀行文に錦帯橋と記されている
単ページ 154
四、錦帯橋の名声漸く世上に伝わり旅人の来観多し
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幕末、戊辰戦争の時に藩兵を指揮して官軍に抵抗した越後長岡藩の河井継之助は、安政六年(1859) 長州を下見しており岩国の印象を手帳「塵留」に残している。
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頼山陽は少年時代、錦帯橋に来たことがある
単ページ 158
五、浮世絵の大家、安藤広重の錦帯橋
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単ページ 160
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