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錦帯橋史
その4 (98 - 130頁) / 全347頁
岩国徴古館所蔵
永田 新之允著述(元、岩国町町長) 岩国観光協会1953年2月発行
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第六章 錦帯橋の構造(其二)橋台石墻の部
一、錦帯橋史の双璧
錦帯橋の上部、木造構造は奇工考案であることは勿論であるが、その下部構造たる橋台、河床下構造を担当した湯浅七右衛門は 児玉九郎右衛門と共に錦帯橋功労者の双璧である。
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河床の安定をもたらした石積みは築城技術である。日本では平安時代、源平時代と多くの城が築かれたが戦国時代の末期に大いに発達した。 吉川広家は、岩国に移封直後の慶長7年、横山の山頂に7年間掛けて山城を築いている。
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二、築城術の大家戸波駿河と錦帯橋橋台
当時、築城術は穴太衆が著明で戸波駿河が大家であった。吉川広嘉は湯浅、米村の2名を戸波駿河に派遣して修行させた。
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戸波駿河の家系
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戸波駿河の家系
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戸波駿河の家系
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三、湯浅七右衛門の橋台築造に関する疑問
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延宝元年の創建時、古文書の編成役割に湯浅七右衛門の名前が記名されてない。翌年の再建時には手伝いと記載されており下っ端だったのか。
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延宝元年の渡初式に、南河内の清兵衛一家が渡ったとあるが、25年後の明暦3年の渡初式にも清兵衛一家が渡ったと記載されており、 古文書にも誤記があるのか。
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築城した御作事組(土木建設)の役人は指揮監督するだけで、実務は湯浅七右衛門のごとき人物が行ったようである。 延宝元年、いきなり登用されたのではなく、従来の土木工事にも手伝っていたであろう。
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石役人は地上の石積みの経験はあるが、川の中の石積は未経験なので穴太衆に学ぶことになったであろう
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湯浅七右衛門は錦帯橋創建時、流失してから穴太衆に修行に行ったと言われているが、伝授を受けるには数年かかるため 実際は創建時より2年前から修行を行い伝授を受けてから一旦帰国して、錦帯橋創建と再建に従事したと考えられる。
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湯浅家には、戸波駿河から受けた秘伝の巻物が残っている。本書の巻尾に原本を掲載している。
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四、1子相伝の機密に伴う1挿話
戸波駿河から奥義を教授してもらえぬので、酒宴を開いて口伝相当の内容を聞き出した。 これに弟子たちが怒り討たんとしたが運よく難を逃れたとの話が残っている。真偽は不明である。
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五、湯浅、米村、児玉の家系
◎湯浅七右衛門の家系
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◎米村茂右衛門の家系
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◎児玉九郎右衛門の家系
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児玉九郎右衛門の家系
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六、錦川の出水と其の洪水位並に橋台の抵抗力
洪水時の最高水位、明治三十五年八月十日は9.16m、昭和八年八月十三日は9.46m、昭和十年六月二十九日は8.39m
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明治三十五年八月十日の洪水の時は堤防を乗り越え、西岩国の刑務所付近まで水に浸かり囚人が屋上に避難した記録が残っている。 錦帯橋創建時より、このような洪水は時々あったようである。
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七、橋台及び河床敷石に対し現代工学的説明
洪水の時は河流で橋脚付近に渦が出来て、これが橋脚周りを深掘りする。昭和十年六月二十九日の時は、臥龍橋の橋脚は約3m掘られていた。 錦帯橋は基礎張石が剥がされて多数流失した。橋脚を維持するには橋脚周辺の河床石畳を堅固に守ることが必要で、260年間、これを実行してきた 苦心の賜物である
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(1)橋脚の位置の決定
(2)橋脚の方向
(3)形状寸法
橋脚石材
(1)橋脚石材の使用材料
(2)橋脚石材の基礎工事
(3)根石
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(4)石垣組立
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(5)剣先控石の緊定
(6)裏石垣
(7)隔石
(8)元禄十二年改良の諸点
(9)橋脚の排水及び湿抜き通風孔
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(10)敷石及び捨石
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(11)橋台の構造
八、近代工業力学の見地から観察したる上造部下造部
昭和26年1月一日発行「土木技術」誌第6巻第一号掲載の日本大学工学博士成瀬勝式氏の論文
(1) 周防の岩国川は昔から乱流が激しく吉川氏移封以前は、今の岩国町は河床であった。 広く産業を興して土木事業を興したのは三代藩主吉川広嘉公であるが、そのなかでも錦帯橋は傑作であった。
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広嘉公は見晴らしの良い城山の万屋谷奥に仮の庵を築き、ここから錦帯橋の進捗を監督していた
(2)
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初代錦帯橋では、太鼓橋では歩行に不便なため、谷の部分に平らな板を掛け渡していた。 しかし、半年後の洪水で、中央の太鼓橋3箇所と橋脚3箇所が流失した。 残ったのは両端の柱橋2箇所と西の橋脚1箇所である。残った橋脚は湯浅七右衛門が築いたものであった。 直ちに災害復旧工事を行い、翌年の延宝二年落成した。この橋の橋脚が二百七十六年間流失せず残った。
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(3) 橋脚の断面は紡錘形、その長軸は水流に合わせている。 河床固めの敷石があり、橋脚は敷石から地上に高さ16尺(約4.85m)、地下に5尺(約1.5m)あり、 底面の長さ40尺(12.1m)、幅18尺(5.4m)で、頂上面は長さ32尺5寸(9.85m)、幅11尺5寸(3.48m)である。
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河床の敷石とは張り石であって橋脚周辺だけでなく橋脚間にも幅広く施工している。 (4) 錦帯橋は木造両端固定のアーチである。甲斐の猿橋や、石組園生八重垣伝の図解を参考にしたようだ。
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両端から桁を迫り出し、中央で大棟、小棟で結びつけることで力学的にアーチ作用を発揮できる素晴らしい構造である。
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張り出した桁には、鞍木が取り付けられている。横揺れを防止しており、延宝六年以後に取り付けられた。
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錦帯橋は木造で腐敗するため20年おきに架け替えている。愛郷の情である。橋脚が流失したのは 第一、第十三世代の橋である。昭和25年流失で第14世再建が必要になるが膨大な資金をどのように準備するか問題である
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