HOME
→
技術継承
→
錦帯橋史の目次
→ その2
錦帯橋史
その2 (29 - 58頁) / 全347頁
岩国徴古館所蔵
永田 新之允著述(元、岩国町町長) 岩国観光協会1953年2月発行
操作法: ページ縮小図を押すと拡大ページになり両端を押すと頁めくりです。拡大後、枠外周辺を押すと閉じます。
第四章 橋の歴史と錦帯橋
一、蔦葛の吊橋から木造橋まで
単ページ 29
西洋文明が日本に入る前、江戸時代まで日本の橋は全て木造であった。 例外は、寛永11年(1634年)長崎で支那僧如定が、中国式のアーチ型石造橋、通称眼鏡橋を造った。 また琉球では室町時代、中国文化の影響で石造アーチ橋が架かっていた。
単ページ 30
室町時代以降の庭園には工芸品として、石造アーチ橋が架かっていたが実用にはなっていない
単ページ 31
豊臣秀吉が大阪に築城して市中に多くの橋を架けたが、皆、木造の桁橋である。 徳川家康が江戸に幕府を開いて日本橋など多くの橋を架けたが、これらも木造の桁橋である。
二、木造橋から石橋、鉄橋、鋼橋となるまで
明治になって、英国人技師により鉄橋が次々に造られた
単ページ 32
石造アーチ橋も次々造られたが、関東大震災で被害にあっている。鉄橋は盛んに造られた。
単ページ 33
ヨーロッパにおいては石造アーチ橋が多く造られている。石材の固定にセメントや石灰石が使われている。 わが国では石材の固定に漆喰が使われている。漆喰の製法はわが国独自であり湯浅家文書に記載されている。 ヨーロッパでは多くの石造アーチ橋が残っているが、最近は鉄橋や鋼橋に変わりつつある。
単ページ 34
三、欧米古来の組立木造橋と錦帯橋
単ページ 35
錦帯橋創設から約100年後の1758年、ヨーロッパのイタリアでトラス構造をベースにライン川に、119mの桁間がある木造橋が架けられた。
単ページ 36
北米の開拓時代は多くの木橋が造られた。屋根をつけて木材の腐食を防ぐ工夫をしたり、桁間100mを超える木造橋も造られた
単ページ 37
四、欧米木造橋のアーチ型構造
トラス構造物がベースになっている。
単ページ 38
欧米では鉄道橋もトラス構造が基本である。
五、我国木造橋の発生及び発達
単ページ 39
最初は、両岸間に柱(梁)を横たえ、そこに板を張り土砂を被せる簡易なものである(第18図1)。
しかし、深い渓谷や急流をまたぐ場合は柱が立てられない。梁を岸から突出させる第19図の案がある。 石造りアーチ橋を第20図に示す。また、第21図のように斜めの部材で支えることがある
単ページ 40
突出張りとアーチ橋の長所を組み合わせた第24図は長いスパンの橋が可能である
単ページ 41
第24図のスパンを更に伸ばすには第25図のように、張りだした上部の梁を屈曲させた形状にさせ、これが錦帯橋の起源ではないかと考える。
単ページ 42
実例としては、甲州の猿橋をはじめ信州の山間部に見受ける。第28図、29図の橋。第30図、第31図はインドネシアのジャワ島に竹製がある。 第33図の如き橋は、加賀藩が黒部渓谷に架けた愛本橋がある第34図は錦帯橋の構造ににている
単ページ 43
単ページ 44
単ページ 45
六、我国庭園術とアーチ型木橋の関係
築庭術の指南書「石組園生八重垣伝」には2,3あり、組出し欄干橋は築山の間で柱を打てない所に架ける。
単ページ 46
厳海橋は、谷川深き所にあり、雲帯橋または木曽橋とも呼び木曽路に2箇所あった。このような造園技術が錦帯橋造営の時に参考になった可能性はある。
単ページ 47
しかし、岩国藩には庭園専門の家臣はいなかったので見聞程度である。
七、欧米及び我国の橋の墜落事件実例と其教訓
単ページ 48
文化4年(1807年)、江戸の永代橋が深川八幡宮の祭礼で橋桁が折れて死者・負傷者1000名の事故があった。 関東大震災では多くの橋が被害を受けた。室戸台風などで未曾有の洪水が起こり橋脚が崩れた。
単ページ 49
1879年、スコットランドで秒速35mのなかで旅客列車もろとも鉄橋が崩れる事故が起きた。
単ページ 50
1902年、カナダのセントローレンス川に架けていた工事中の鋼鉄橋が落橋した。
単ページ 51
単ページ 52
1940年、アメリカで橋の固定振動数が風と共振して上下左右に大きく振動して壊れた。
単ページ 53
八、支那古代人の橋に関する構想
単ページ 54
単ページ 55
単ページ 56
単ページ 57
単ページ 58
TOP