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錦帯橋史の目次
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錦帯橋史
その1 (1 - 28頁) / 全347頁
岩国徴古館所蔵
永田 新之允著述(元、岩国町町長) 岩国観光協会1953年2月発行
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第一章 関が原役後吉川広家の鬱勃精神
一、天下分け目の大会戦と毛利一族
天下分け目の関が原の戦では豊臣方は破れ、中心人物の石田三成や安国寺 恵瓊らは京都7条河原 斬首せられた。
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毛利家は豊臣秀吉と戦った経緯があり本能寺の変で突如和解が成立したとは言え恩が深いわけではない。 毛利輝元の従兄弟である吉川広家は秀吉亡き後、黒田長政を通じて徳川家康と刎頚の交わりを重ねていた。
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石田三成が挙兵したとき、吉川広家は月山富田城から上杉討伐に合流するため大阪付近にいた。吉川広家は毛利輝元に 大阪からの誘いに乗らぬようにと広島の居城に使者を送ったが二日違いで、石田三成の使者が早く着き、大阪に出発した後だった。
二、吉川広家の苦心と大望
吉川広家は急遽、黒田長政経由で家康宛の密使を遣わし、大阪城にいるのは本意ではない、南宮山に陣を張るが東軍と敵対しない旨を告げた。
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関が原の戦直後、家康は毛利家を断絶し吉川家には2カ国を与えるとしたが、吉川広家は黒田長政経由で家康と交渉して2カ国を毛利家に与え、 吉川家の所領は毛利家から拝領する事にした。
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毛利家・吉川家の鬱憤は根深く、萩の毛利家では元旦「廊下の式」が14代毛利敬親まで続いた
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家康は稀有の武将であるが古来より2代目、3代目になると凡庸で家が滅びることがあり、家康、秀忠亡き後、凡夫の将軍が出れば再度戦乱が訪れると、 吉川広家は睨んでいた。之に備えて財力を蓄えるため、海面干拓と山間開墾を始めた。
三、劇的光景の鞭棄小路
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吉川広家は武芸鍛錬のため横山の岩国高校旧校門付近にいたとき、江戸に放っていた隠密から密書が届き「3代将軍家光は英明の主にて候」と 書いてあった。吉川広家は自分の代で毛利家復興は困難と悟って深く失望し、馬を降り鞭を棄てたまま御館に帰っていった。
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吉川広家は五十六歳で封位を広正に譲り、六十三歳で通津村に隠居し、六十五歳で亡くなった。
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四、干拓事業発起と錦帯橋創建
これらは藩政時代の2大偉業である
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第二次大戦後、日本に進駐した米軍で米国大学の心理学教授は、日本人の発想力の豊かさに感嘆している。 また、昭和7年、文部省国宝保存会の委員として錦帯橋を視察に来た工学博士岡野貞氏は世界の橋を調査してきたが、このような 橋は世界に無いと賞賛している。
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古今東西、民族繁栄の時は精神の発露として立派な建造物を後世に残しており、往時を偲ぶことが出来る。 錦帯橋は、戦国武将の精神を具現化したもので岩国だけでなく、日本民族の誇りである。
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第二章 錦川の流勢及び、渡し船、架橋
一、錦川と岩国の文化
岩国川(俗称 錦川)は中国山脈の分水嶺に源を発し、山口県中央部で山脈に遮られ大きく迂回し、島根・広島山間部の川の水と合流して 瀬戸内海に流れる大河である。総延長は124kmで、流域の97%は山間部で平地は3%である。
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錦川の流域は864平方kmある。穏やかで美しいな川であるが、雨が長期間降れば峡谷を流れる水は一気に増水して両岸の立ち木や岩をを洗い流す。 長年、山岳地帯の土砂を河口付近まで押し流して堆積しており、吉川氏入封当時は河口付近に広範囲な干潟が出来ていた。
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万葉集に柿本人麻呂が詠んだ「麻里浦」があるが、之は、新港から門前、尾津、四方田にかけての風光明媚な干潟であった。 新港から砂山、白崎八幡宮は当時の海岸であった。 錦川は現在本流1本であるが、当時は岩国山に沿った川筋と鉄砲町・長久寺付近を流れる川筋もあり、現在の西岩国駅付近は葦の生い茂った中州であった
二、錦帯橋架設前の渡川交通
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士族の住宅が錦見町や鉄砲町・鍛治屋町などに出来るにしたがって対岸にある横山の藩庁と往来する必要が出てきた。 現在、錦帯橋と臥龍橋がある2箇所に渡し船があり、橋が架けられることもあったが、大水で悉く流失した。 「渡守」という役職が設けられ8石2人扶持であった。 藩の重臣、宇杢之允名で寛永13年の日付で「横山渡掟」が定められている。
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宇杢之允は後に錦帯橋架橋の普請奉行、宇都宮正如の祖父である。 慶長五年入封から39年目の寛永16年以降、渡船と併行して平橋の架橋が始まったようで、渡守に、橋が損傷したらすぐ補修するように、 雨で橋柱に流れかかるものがあれば外すように、橋柱に船や筏を繋がせるな、近くで焚き火をするな等の覚書が残っている、 。
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明暦3年(1657)に書かれた古文書には、架橋したが正月の挨拶には渡船を使ったとある。多分、増水で流失したらしい。
第三章 吉川広嘉および錦帯橋の創設
一、岩国藩第三代の英主
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吉川家の始祖三郎経義は、鎌倉武士として功があり静岡県清水市の吉河付近に所領を有した。2代目吉川友兼は 梶原景時が鎌倉を追われ京都に赴かんとする時、鎌倉の命で梶原景時一行をを討ち、この功績で広島に所領を得た。 このときの刀は国宝として吉川家に伝承されている。吉川広家は始祖三郎経義から第17代で、吉川広嘉は第19代目 、徳川幕府は第四代家綱の時代で武力で対抗する大名はいなかった。
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二、吉川広嘉の創造的精神
第二代藩主吉川広正の時代、何回も橋を架けたが、ことごとく洪水で流され、再建費用が無視できないほど膨らんできた。 3代吉川広嘉は、河に柱を建てない方法に悩んでいた。餅が膨らんだのをみてヒントを得たとか、明の亡命僧、独立からの暗示にヒントを 得たとの説が伝承されている。
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ヨーロッパのローマ帝国には石橋の技術があるが当時の日本では知るすべも無く、従来建築の木材で如何に行うかが大問題であった。 当時より無脚の橋としては、山岳地帯に吊り橋があった。
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三、甲斐の猿橋と吉川広嘉並びに藩臣児玉九郎右衛門
猿橋は室町時代から現在に至るまで中仙道に架けられた実用的な橋である。
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作事組の児玉九郎右衛門は、吉川広嘉の命で諸国見聞を行い、猿橋を調査したり長崎で独立に会っている。
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四、猿橋の故実と錦帯橋
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猿橋の由来
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猿橋の構造
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五、明僧独立禅師が吉川広嘉に示した支那西湖の聯橋図
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西湖志について
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