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錦帯橋の話(目次)
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錦帯橋の話
その5 (76 - 92頁) / 全111頁
岩国中央図書館所蔵
品川 資(元岩国市錦帯橋建設局次長) 著述
1954年10月発行
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錦帯橋の話 第三編
一、橋名とその由来
単ページ 76
単ページ 77
二、錦帯橋にまつわる伝説と俗説
一、武勇伝二題
単ページ 78
(1)中山新三郎錦帯橋畔の仇討ち
講談で、中山新三郎が官営7年(1630年)岩国の剣術師範だった赤松角左エ門と錦帯橋河畔で敵討ちをしたと語られているが、 寛永7年には錦帯橋は出来てなかった。また、当時の公式文書に赤松の記録もなく、架空の話である
(2)佐々木小次郎、燕返しの剣法修得の柳の木
吉川英治の「宮本武蔵」では剣豪、佐々木小次郎が錦帯橋のふもとで燕返しの剣法を修得したとある。 巌流島で決闘があったのは慶長17年(1621年)とあるが、錦帯橋が創建される61年前である。
単ページ 79
二、橋脚に人柱を埋めた説
洪水で橋が流されないように人柱を埋めたという噂があったが、キジヤ台風で橋脚が崩壊したときに掘り返したが、何も出なかった
単ページ 80
三、架橋の秘法は一子相伝
1.拱橋(第二、三、四橋)曲線構成の為の用材切組。第二、第三、第四橋は長さが違うため共通の型板では無理である。
2.棟合わせの時、少し長めにして木材が乾燥したときに丁度良い高さにさせる
単ページ 81
一子相伝の実態
単ページ 82
四、橋体崩落の秘法存在説
錦帯橋は防衛上、一旦ことがあれば橋体は忽ち崩落する仕組みになっているという説は古来より、多くの人が信じている。 橋の構造を知れば部材の一部を外せば瓦解する仕組みは無いのは理解できる。 しかし延宝二年、橋脚が崩れて隔石のツッパリ力が無くなり、第二、第三、第四橋が次々に崩落するのを見て、そのような俗説が生まれたと考える。
単ページ 83
五、城か橋のいずれかを破棄せよと、徳川幕府に迫られた説
城を破棄したのは一国一城令により萩の上月城のみ残し、他は破棄したためであって、錦帯橋とは関係ない
三、錦帯橋交通概史
単ページ 84
(一)錦帯橋架設以前の状況
吉川広家は岩国に移封する前は、大内家が建立した永興寺があるのみで周囲に人家は無く沼、湿地帯であった。 渡し船や橋はなく、錦川をはさんだ往来は無かった。 慶長5年に吉川広家が居城を横山に定め、河川の整備、城下の整備を始めてから往来が活発になり、渡し船を常設した。 貧弱な柴橋、土橋を設けたが洪水の都度流失した。広正の時代、明和三年八月三日に立派な橋が掛けられたと記録にあるが、 この橋も流失した。この渡し船、木橋には八石2人扶の渡守が置かれた。
単ページ 85
(二)錦帯橋架設後の交通とその変遷
延宝元年十月三日、錦帯橋の往来が開始されたが当初、太鼓の上り下りが不便なので太鼓のうえに板を渡して、平らな橋にして渡っていた。 翌年、流失して再建後は上り下りする現在の通路に改め、明治二十一年三月臥龍橋が出きるまで、錦川に架かる唯一の橋であった。 明治以降は車馬の通行できない国道であったが、大正四年八月、臥龍橋が国道になり錦帯橋は町道になった。
単ページ 86
横山周辺には3箇所に関所があり通行人を監視していたが、錦帯橋にも橋守が置かれ通行人を監視していた。 横山地区は城内であったので、錦帯橋を渡れる人を制限していた。
単ページ 87
しかし太平の世が続いた天保十二年頃より、監視体制が緩み来観者を受け入れるようになり大いに賑わってきた。 安藤広重の版画や錦絵で世間の注目を浴びるようになった。
2.自由通行時代
明治の廃藩置県以降は国道として自由通行になり橋守も廃止になった。但し、文化財なので車馬は通行禁止である。
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昭和二十一年、駐留米軍のジープが錦帯橋を渡り橋板の損傷が激しいため、橋の入り口付近にボックスを設置して車両の進入を禁止した
三、交通雑話
1.槍倒しの松
通常、参勤交代の大名行列は地元の藩庁前を通過するときは槍を下げて敬意を表するが、吉川藩を小藩と見くびり槍を下げない大名がいたので 錦帯橋畔路に枝振りの良い松を植えて槍を下げざるを得ないようにしていた。この松は昭和27年夏、遂に枯れた。
2.錦帯橋の証明と炬火籠の新設
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国道には電球が必要と考えられたが、景観上、かがり火にした
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3.錦帯橋の夕涼み
川原に屋台が出て夕涼みをしたり、鵜飼いを楽しんでいた。(現在は、車社会で夕涼みする人は減少した)
4.錦帯橋の交通量
(一)観光客 年間、100万人~150万人
(二)通勤・通学 年間約30万人
(三)催し物 約35万人
(四)その他 約20万人
合計、年間180万人~230万人、往復で延べ350万人~430万人、一日約1万人である
一日、最大交通量は昭和二十八年四月十二日の花見で、往復延べ二十万人とされている。混雑時には錦帯橋を渡るのに1時間かかり、 橋の上には約6千人が常時乗っていたとされる。このとき、欄干の外を歩いていた中学生が落下する事故が起きた。 また、老婆・幼児が押し倒されて重傷をおった。
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5.交通事故
文政四年九月九日の椎尾神社の三十三年祭りの時、大明小路から錦帯橋畔にかけて流鏑馬があり群集がひしめき合っていたとき、 群集に驚いた馬が狂走して錦帯橋に駆け上がり、群集の圧力で高欄が折れて80名~90名が橋から落ち死者8名、けが人多数を出した。
また、大正5年川西の男女が第四橋から錦川に身を投げ心中した記録が残っている
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