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錦帯橋の話
その2 (19 - 30頁) / 全111頁
岩国中央図書館所蔵
品川 資(元岩国市錦帯橋建設局次長) 著述
1954年10月発行
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錦帯橋の話 第一編
湯浅七右エ門と米村茂右エ門は穴太積みの秘儀を習得したとき、技術の漏洩を恐れる弟子に命を狙われた説があるが、 徴古館に免許状が残っているので逃げ帰ったのではなく礼を尽くして岩国に帰ったと考えられる。
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錦帯橋の構造
一、創建当時の構造
1 橋脚(台)
(一)下部(基礎)構造の概要
基礎は編木法と呼ばれるもので、生松丸太の大木を橋脚の形状に合わせて弧形の枠を作り、この下には生松の杭を打ち、 中には捨石を詰固め根石と呼んでいる
(二)上部(躯体と桁受け)構造概要
根石の周りに足場を組み石材を積み上げていく。この石垣の築造方法は築城方法と同じで大きな石を安定よく按配し、 隙間に扶石を押し込み漆喰で固定する。 橋脚の上流・下流側の先端は笠石と呼び特に大きな石を用いて洪水の水を切るように配置する。 笠石間を強固に接合するため接面部の6箇所に千切りと呼ぶ穴を堀り鉛を流し込んでいる。 橋脚内部には裏石垣を構築し、空間には栗石を詰め込んでいる。内部を密閉すると水圧で崩れるので栗石で水の力を受け流している。
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隔石は橋脚の上から約2.7m下を基底にして埋め込まれている。隔石は幅45cmの花崗岩で両面に彫った2mの長溝に 橋の桁尻を嵌め込んで桁の支点になる。隔て石は5個あり、その間は振留石を詰めて橋体が揺らぐのを防いでいる。
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錦帯橋下流3km付近で錦川は今津川と門前川に分岐するが、ここに石造の堰堤(せき)がある。 平時はここで取水しているが、洪水時は60%の水が門前川に流れる仕組みになっている。
洪水時の河床洗い掘り
昭和二十六年十月十四日のルース台風の時、第三橋下の敷石は殆ど剥離流失した上、洪水の洗い掘りで橋脚周辺に約3mの穴ができた。 創建時の橋脚の河床下の深さは約2.7mだったのでが崩落する勢いであるが、井筒工法では河床下10mまで埋め込んでいるので 問題ない。しかし、このような大きな穴があくのは問題なので今後とも、河床石畳の強化と補修には留意すべきである。
橋体(木橋)
(一)下部(桁部)構造の概要
イ 拱橋
A 桁及び棟木
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B 楔(くさび)
C 梁(はり)
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D 拱肋の結束
E 後詰木
(3)補強部材
(4)平均木
(5)蔀板と梁鼻隠
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ロ 柱橋
(1)普通橋脚
(2)梁、桁
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蔀板と雨覆
(二)上部(橋板、高欄)構造の概要
(1)橋板
(2)高欄
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錦帯橋用木材の適格条件
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創建後の設計変更
二、延宝元年の創建から昭和25年の橋脚崩落までの設計変更
木橋の構造に変化は無いが、付帯部分に改良の痕跡があった
1 河床々固(敷石)施工
洪水時に橋脚基礎周辺の洗堀りで河床に大きな穴があくため、延宝五年、河床全面に敷石を敷き詰めることにした。 この基礎床固工事は、3層の張石よりなる。
まず、橋脚中心より上流・下流の60間(108m)に捨石をなし、その基礎には生松丸太の乱杭を打めぐらし、大石、 中石、小石を混ぜて均等に打ち固めた。その数は川舟で延べ数万艘に達したという。
其の上に、橋脚中心より上流・下流40間(72m)に雑石を用いて荒敷石を構成した
更に最上層には橋脚中心より上流・下流20間(36m)に割石を用いて迫込植石を施して中窪に仕上げている。 現在敷石として表面に現れている部分は橋脚を中心に上流20m、下流60mの範囲に過ぎない。 橋脚周辺のように、洪水で洗堀が大きい箇所は大きな花崗岩を河床に埋めて補修している。
2 敷石防御用捨石工事
延宝六年、敷石を防護するため、上流・下流に捨石を実施した
工事に使用した石材は鳴子岩大内迫より川舟で運搬した
3 拱橋の補強に鞍木を取り付け
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4 橋脚上部に排水機能
木橋は太鼓状になっているため、雨水が橋脚上に流れてきて橋脚に埋め込んだ木橋張り出し部分に湿気が溜まり木の腐食を進めていた。
元禄12年、橋脚上部に葛(かずら)石、亀甲石を設けて雨水や洪水時の流水が入り込み難いようにした
(写真の出典は岩国市錦帯橋課のHP)
5 橋板を水が浸透しにくい方法に変更
元禄・宝永の頃より、橋板は水が浸透しにくい水返し核を作る羽重ね張に変えた
(写真の出典は岩国市錦帯橋課のHP)
6 柱橋(河岸側の第一、第五橋)の橋板継ぎ目を銅板で覆う
享保六年(1721年)、河岸側柱橋にはこれまで、橋板継ぎ目に檜皮を充填していたが、中央の第二、第三、第四橋と同様、 橋板の継ぎ目に銅版を被せたと書いてあります。その後、永続して取り付けられたわけではない。
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明治・大正時代には橋板の継ぎ目には艦船の甲板同様、檜皮を詰め込み上面にピッチを充填していた。
7 高欄を上げ風通しを良くした
創建時、高欄の土台は橋板に密着しており接触面が常に湿気を持っていたので、寛政八年(1796年)の架け替えより 枕木を敷いて直接橋板に接触しないようにした。
(写真の出典は岩国市錦帯橋課のHP)
8 連絡通路
錦帯橋の入り口は創建時より漆喰の叩きであった。明治以降、これをコンクリート舗装とし、更に最近は花崗岩の乱張り、合端はモルタル詰めに変わった。
9 高欄の形状を擬宝珠
江戸時代、身分制度により吉川家の格式では擬宝珠を使うことが禁止されて質素なものであったが、大正7年の木橋架け替えの時、 豪華な擬宝珠の高欄に変更した
(写真は江戸博物館にある日本橋復元模型である.。昭和26年の再建工事では元の質素な形状に戻した)
10 湿気抜き通風孔の設置
橋脚内に埋め込む拱肋の張出し木材の換気のため、昭和4年の架け替え工事の時、橋脚石垣の合端に2~3個の通風孔を設けた。
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