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錦帯橋の話
その1 (1 - 18頁) / 全111頁
岩国中央図書館所蔵
品川 資(元岩国市錦帯橋建設局次長) 著述
1954年10月発行
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錦帯橋の話 第一編
タイトル
表紙
一、序論
錦帯橋は1673年吉川広義公が創建し翌年流したものの、その後1950年2度目の流失まで原型どおりに維持されてきた。 架橋方法は一子相伝で極秘であった。大正11年名勝天然記念物に指定された。
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二、岩国地誌概要
吉川氏は錦帯橋を創設したが、同時に2000町歩の開地を行い現在は、市街地、蓮田、工場地帯、航空基地に変貌したが岩国発展の基礎を造った
錦川と岩国
錦川は中国山脈の分水嶺付近が源流になり124km、流域面積864平方kmに達する山口県一番の長流である。 山間渓谷を流れるので景色は良いが台風シーズンの洪水は凄まじく、流域の人家、田畑を尽く流す。 吉川氏が岩国に移封する前の錦川下流付近は、支流が数本あり葦の生い茂る沼沢地で人家は少なく寂しい所だった。 吉川氏は移封せらるるや、錦川の大改修を行い堤防を築き、川幅を広げるなどの工事を行って、錦川の流れを1本にまとめた。 藩政時代は1万5千の人口だったが、昭和に入ると化学繊維工業の発展で沿岸部に多くの工場が建ち人口は7万人に達した。 多くの工場が相次いで進出した理由は錦川の豊富で良質な水と、沿岸部の広い土地であった。
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図1
図2
錦川の名称起源
古書によれば、天智天皇(在位668年〜672年)が九州・筑紫行幸の途中、岩国山から対岸の躑躅が咲き乱れ川面に映る様子を見て 「錦を見るが如し」と仰せられてよりこの地を錦見、錦川と呼ぶ様になったと言い伝えられている。
吉川氏と岩国
慶長5年(1600年)吉川広家は岩国に移封されたが、当時錦川沿岸は沼地・沢地ばかりであったため、海路、由宇に上陸・滞留して岩国町づくりの構想を練った。 2年後、城を城山東の山頂とし、居館を山麓の横山と決めた。ついで、錦川水路の変更、堤防の構築、新地の開拓、士民住宅の区画整理、西岩国の市街地整備を行った。 吉川氏の最も顕著な功績は、錦帯橋の架設と干拓・墾田と考える。その子孫は産業を興し、文教を盛んにした。 錦帯橋は明治21年3月、臥龍橋が架かるまで、錦川に架かる唯一の橋であった。
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開墾・干拓・墾田
岩国領は山地多くして耕田少ないため、開墾・干拓・墾田は吉川氏入封以来の一貫した政策であった。 慶長8年(1603年)、吉川広家公は玖珂郡麻里布浦で最初の開作を始めた。以後、広正公、広義公と新地の開墾に努め 4代藩主広紀公は柳井湾を埋めて広大な耕地を作った。5代藩主経禮公は、門前、尾津、川下の開墾を行い各所に水路を設けて農業の発展を図った。 広島との国境から柳井に至る10里の沿海部の新開拓地は2000町歩に達し、名目6万石が実質12万石に達した。
三 錦帯橋の由来
吉川氏の岩国移封以来、広嘉公が錦帯橋架設に成功するまでの70年間、幾度と無く木橋を架け構造を強化したが、尽く洪水で流失した。
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拱橋(アーチ橋)を必要とした理由
吉川広嘉公に浮かんだ架橋構想は
(一)橋脚は凄まじい漂流物の滞積に堪え、かつ洗堀による崩壊を防ぐ構造にすべきで、特に橋脚間を出来るだけ長くする必要がある
(二)橋体は長スパンを架渡し、洪水時の高水位でも水圧に耐える構造にすべき
木材と石材しかない当時、困難な課題であったが
(一)に対しては築城技術を用いた石垣構造
(二)に対しては、多数の木材を用いてアーチ型の橋体を組み立て架橋する
平橋に比べ渡り難いが、落ちない橋、流失しない橋に重点が置かれた
2 拱橋(アーチ橋)創案の動機と経緯
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拱橋(アーチ橋)を思いついた動機は2説あります。
かき餅説
(一)広嘉公がある日かき餅を焼いていたとき、餅の膨れる様子を見て、この形は甚だ良いのでこのような橋ができないかと、大工の 児玉九郎右衛門を呼び出し相談した
独立の感化説
(二)当時、明の独立禅僧が岩国に滞在していたので、この独立の影響ではないかという説である。
有力な案は(二)で、かつ独立が広嘉公に献じた「西湖誌」に書かれていた「宋朝西湖の図」だと考える。
西湖誌
西湖図には湖中に数個の島があり、各島を貫いて石造りの太鼓橋が架けられていた。長いスパンに石造りの橋は不可能であったので、 これをアーチ型の木橋にする独創的な構造を思いついた。このような事例は当時、どこにも無く驚異であった。
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独創的アーチ橋の創造
広嘉公は江戸往来の時、甲州の猿橋を視察した事実がある。また、大工児玉九郎右衛門を各所に出張させて庭園に用いられた組出し欄干橋等の 見学をさせている。
3 創建工事の概要
(一)延宝元年の創建工事
藩政府直営で、普請奉行正副2名の配下に体制を整えた。
現在と同じように、総務、工務に分別し、総務は庶務、会計、用途係、工務には建築、土木係を設けた
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作業施設
横山側は、大工小屋1棟、木挽小屋1棟、鍛冶小屋2棟、普請奉行出張所を新たに建て、錦見側河原に大工小屋2棟を建て、同時に 架橋を開始した。
資材
(1)石材
大部分を岩国山採石場(岩国工業高校の裏山)から切り出した。
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(2)木材
木材の種類は橋の用途箇所で決まっており現在も踏襲している。例えばアーチ橋の桁材は欅(けやき)で、 第一橋、第五橋の柱は松、橋板と高欄は檜を使用している。 これら木材は藩内の倉谷山、阿品山からは欅(けやき)、檜、城山からは松を伐採して使用している。
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欅(けやき)材確保のため、倉谷山等に計画的に植林している。 吉川家歴代の努力で木谷山は檜と杉の良木が育ち、2800町歩に及ぶ林産経営は現在でも、吉川林業が行っている。 城山の松は錦帯橋の用材として利用されていたが、昭和20年頃全国的な松くい虫被害のため枯れた。
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工事費用
支払いが、米、銀であり、作業延べ人数の記載があったり無かったりで、総費用推定は困難である
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直接使用労力は一日平均190名で延べ22,800人日と推定される。 施工の概要
延宝元年六月二十八日、鍬初めの式が行われた。普請奉行は宇都宮杢之允(正)
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祖式惣左エ門(副)
十月一日竣工、十月三日渡初め
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延宝二年の復旧工事
竣工から僅か8ヵ月後の五月二十八日の大洪水で中央の3橋が流失した
流失の原因が橋脚の崩壊であったため、改良工夫して入念に施工された。
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創建功労者
(一)吉川広嘉公
父は吉川広正公、母は毛利輝元の娘で萩の岩国藩邸で元和7年(1621年)生まれた。 室は小早川隆景公の娘である。
錦帯橋創建の他、製紙産業を興して磐石の経済基盤を造った。錦帯橋創建の5年後、マラリアが悪化して萩の岩国藩邸で逝去した
(二)児玉九郎右衛門(橋体の設計・指導)
児玉家は代々、吉川家に仕えていたが微禄であった。数理・建築の技術を身につけ広嘉公が技量を認めた。
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長崎の独立禅僧に薬を取りに出張したり、宴会では役職者の座に列せられ、恩賞も篤いなど破格の待遇であった。
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児玉九郎右衛門は飛脚を多く使っていたことから権威者から多くの示唆を受けていたと考えられる
(三)湯浅七右エ門と米村茂右エ門(石垣および敷石造作)
湯浅家は駿河時代から吉川家に仕え、作事組の土木建築業務として築城や石積みを行っていた。
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延宝二年五月中央の三橋が流失したとき、湯浅七右エ門が築いた橋脚は無事だった
吉川広嘉光はこの功績を認め、再建復旧工事では正式な石方役人に組み込んだ。 また、湯浅七右エ門と米村茂右エ門を当時一流の築城技術者である戸波駿河に師事させた。 延宝五年施工した河床敷石工事では、監督指導に当たった。 その後、室木開作とそのほか新開地での石垣構築に従事した。 湯浅七右エ門はその功績で4石加増になり都合、20石になった。
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