岩国市史
沼・干潟・川跡・遠浅海の開墾
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第二部 藩政時代の岩国
第二編 経済
第四章 国産の奨励
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第二節 産綿と製織
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綿花の生産
岩国領においても綿作は行われていたが、農家の自家用衣料の原料として消費されていた
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明和の頃(1764〜1771年)開作した川下六ヶ村と和木・装束で綿花の栽培が始まった。
当初、綿花の品質が悪かったので、村本三五郎は諸国の綿栽培を調査して、備中玉島産が岩国の
土壌に適していることを発見した。
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綿作の質量共に向上するにつれて商人が入り込むようになったので、
寛政七年(1795年)綿世話所を置き,仕法を定めた。
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寛政十二年(1800年)、綿世話所を廃止して綿用場を岩国町に設けた。
弘化二年(1845年)、川下諸村の請願で綿世話所を今津町に移した。
産額は、6貫300匁(約23kg)を1本として年平均1万本で廃藩時には一万六千本であった。
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検査を行って上・中・下の三等級に分け、封印・検印を押して売買できた。
廃藩前後では綿1本は先物で五百匁であった。
綿布の製織
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正保四年(1647年)、100石以下の者の衣類は、木綿の綿入れ・紙に柿渋を染込ませた紙子・
植物繊維を編んだ布・麻と定めていた。農民は紙漉地域以外は織物や養蚕に励んだ
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17世紀末には農家副業の布や木綿の衣類が岩国町で売買され、京阪方面まで売り出された
不ぞろいで安価に買い叩かれたので、市中に判突所をを設けて売り物の織物に検印を押した。
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地方生産の織物は口銭場で検印を押した
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寛保年間(1741年頃)、岩国領の織物は名産品になっていた
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玖珂村聞光寺(後の正光寺)の住職の子、富山秀意は創意工夫で丹波等のちりめん製造法を
改善した木綿ちじみを製造する方法を案出した。岩国ちぢみとして広く知られるようになった。
宝暦十年(1760年)、すべての織物に検印制度を復活させ厳重な尺幅検査を経なければ
領外に持ち出すことは出来なくなった
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安永五年(1776年)、織物の銘柄別たけ幅寸尺の標準表を示す。
寛政三年(1791年)の岩国領織物出来高は、木綿一万三千六百九十一反、
麻布六千七百二十三反、畳縁布三千四百四十九反、衣地一万千二百七十二反と記されている。
(生地により反の規格はマチマチで、1.12m×46m〜50m)
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岩国町と並んで柳井津にも反物座が設けられた。
天保十一年(1840年)以降、月間二万反以上の検印を行った月が時々あり、驚嘆する量である。
販売価格の表を示す。(1反、約3〜5万円以下に定められている)
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幕末、地方産織物の種類と規定尺幅寸法の表
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岩国藩の紡績は農家に留まらず中級以下の武士階級にも浸透していた。
武家の副業は岩国ちぢみの綿織が盛んであった。
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