岩国市史
沼・干潟・川跡・遠浅海の開墾
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第二部 藩政時代の岩国
第二編 経済
第四章 国産の奨励
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第一節 岩国藩の製紙
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岩国半紙
江戸時代中期、享保(1716〜1735)には岩国半紙は大阪市場で広く取引されていた。
岩国藩は製紙業が開けた芸州(広島)と萩藩の山代に接していたため早くから製紙業があった。
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岩国藩紙業発達の起源は諸説あるが、藩の創設より少し前に近隣より伝わり領主の奨励で急速に普及した
楮は潮風に弱いため山間部の傾斜地で栽培して渓流で紙を漉く。
岩国藩・萩藩では田畑の正租以外に楮・茶・桑・漆等の収益に税をかけ浮所務として石高にもっていた。
楮の収益を米に換算して楮石と称していた。表に各地区の楮石を示す
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宝永元年(1701年)、楮石の総計は1516.9石であった。
小瀬村は藩の奨励で当初の4石から180石まで生産量が増大し、かつ質の良いものであった。
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玖珂郡志にある半紙漉立費の見積書
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通常の半紙の外、数種の高級紙を製した。
板紙は滲みないので藩庁の正式文書の記録用に作られたが珍重された。
御用紙・紙子紙・障子紙・上り片折・記録片折・鼻紙・杉原形等がある。
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各紙種別ごとの規格を表に示す
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仕上げの標準を定めて製品の均一と質の低落防止に努めた。
さらに細かい種別があり、半紙の種類は、白半紙・黄半紙・柏半紙・献上選出等で分け、
片折の種類は、記録片折・上り片折・白片折・柏片折・厚片折等で分けた。
小半紙は、小菊とも小紙ともいった。御用紙の種類は白御用紙・黄御用紙・柏御用紙・色御用紙等が
あり、板紙には大本と中本の区別があった。
岩国領では楮24貫(約90kg)で半紙1丸(12,000枚)をつくった。
紙の種類毎の所要量を表に示す。
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紙の専売
紙業が起きると各地の商人が勝手に入り込んで取引を始めたので、岩国藩は紙専売の制度をしいた。
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紙座を作り販売を依頼した。また領内の代官に紙見取開始の触れをだした
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紙の検査を行う上見取役と下見取役を設け、下見取役は各紙透村で紙の検品を行い、検査済を紙蔵に送る。
上見取役は紙蔵の紙を再検査する。
検査結果に応じて80等級に分けた。
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紙蔵は、当初御庄にあった河内代官所役宅であったが多田に移され、1679年錦見の上土手、鳴子岩に移され
廃藩まで続いた
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岩国紙は大阪の紙座で扱った。大阪で売れないときは多田の紙蔵に各地の商人を呼んで直接販売した
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大阪には岩国藩の蔵屋敷をもうけた。大名が大阪に藩邸を持つことはできないので屋敷の名義人は
大阪商人の塩屋宗貞として、役人が常駐した。
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大阪蔵屋敷役人の任務は販売だけでなく、蔵現物を担保にした借金や事務処理が主たる業務であった。
1660年頃には紙の売り上げ収入が顕著になり、紙の専売を強化するため、横目付けが楮の転売等を
監視するようになった。
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寛文8年(1668年)、幕府からの諮問に対し次のように答えている
一、2万石に相当する紙を物納させている
一、紙の生産量は1万丸(丸は紙の種類で異なるが半紙では約12,000枚)
一、紙の販売は大阪で行い自由販売である
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岩国領では半紙一丸を三釜で漉き、一釜分の楮を一把と定めた。
一把は楮8貫目(30kg)に相当し、楮の収穫量を調査すれば半紙が何丸出来るかわかる。
楮一把につき地子二匁七分を徴収した。
紙漉百姓には、事前に飯米と楮買の資金を貸して貢租と資金運用計算をさせた。
紙は市場において元銀の四割から五割の利益が得られた
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岩国藩では半紙一丸の仕入元銀は四十匁〜五十匁であり、これは米三斗と現金二十九匁が紙百姓に渡された。
半紙以外の紙種についても仕入銀と支給内訳を決めていた。
大阪では半紙一丸は百四十匁で売れたので、岩国藩の利益は膨大であった。
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大阪へ搬送した紙は1701年の1万5千丸がピークで、1748年七千丸、1837年二千丸と減産した。
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寛政三年(1791年)、大阪には四千五百丸搬送し一丸五十匁の原価に対して百五十匁で売れている
この年、岩国藩は約五百貫の利益が出た。
全生産量の1〜2割は地売りと称して市中販売が行われた
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