架橋までの長い道のり その2

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ギリシャ 古代のオリンピック競技場 紀元前3世紀

 出発点

関が原の領地再配分で、吉川家は周防岩国に移封になった。当時の時代背景として、まだまだ戦火が起きる可能性があり早急に堅牢な城郭を造る必要があった。 初代岩国藩主、吉川広家は山陽道を監視でき、錦川を外堀とする横山に上級武士を住まわせ、錦川対岸の錦見に中級・下級武士の住む地域とした。 錦川には城門橋を造り、錦川の氾濫で浅瀬が続く沿岸一帯を埋めてて田畑の干拓する都市計画を立てた。 この都市計画が出発点であった
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平成24年11月11日、第三回錦帯橋国際シンポジウム in 江戸
早稲田大学大隈記念講堂

吉川家16代当主 吉川重幹氏の講演より抜粋
江戸時代初期、中国明・清にあった橋  一長一短ある
拱橋
拱橋は曲げのモーメントで橋を支えているが、アーチ構造は鉛直荷重を水平方向の力にも分散する。 拱橋は純粋な意味でアーチではない。


アーチ構造
上から押さえる力に強い。錦帯橋では桜のシーズンなど、1橋に3000人乗る事もあり人命の安全確保の観点から、アーチ構造は重要。 但し、スパンが短く、洪水に弱い。


舟形橋脚
洪水が激しい錦川では必要である。参考になる


連続アーチ
錦川は川幅が200mあるので連続アーチ構造は必要である。しかし、水中の壁面が広いと洪水を堰きとめ、かつ長崎めがね橋のように壁面崩落のリスクがある。


石造アーチ橋は洪水に弱い
石造アーチは6000年の歴史がありローマ帝国で花開いた素晴らしい技術である。中国経由で日本にも石造アーチ技術が入ってきた。 ヨーロッパや中国では凱旋門や運河の橋などで使われている。 しかし、日本の長崎、めがね橋は洪水が起きる中島川に構築された。 アーチ構造はレンガの自重で強固に結合しており上からの力には耐えるが、歩行道路を支える石は空積しているので、 洪水で横から強い力を加えると崩れる。洪水の時には堰のように水圧を受け止める欠点がある。

長崎 眼鏡橋 寛永11年(1634年)(江戸時代初期)

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中国の木造拱橋は曲げのモーメントで支えており、アーチではない

第二回錦帯橋国際シンポジウム
主催者:岩国市
日時:2010年11月14日
場所:岩国観光ホテル
で行われたシンポジウムで、北京大学教授 方先生は、中国の木造刎橋・拱橋は曲げの力を受けており、アーチ構造の圧縮の力ではなく、 錦帯橋の構造と異なると発表しています。
第二回シンポジウム 北京大学教授 方先生講演
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橋のスパン 錦川を一跨ぎする橋は当時の技術では不可能
錦帯橋は洪水の時に水の流れを堰きとめないように、出来るだけ大きなスパンで橋を架けたと聞いたことがある。
出典は、建設コンサルタント協会
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17世紀の石造アーチ橋の平均スパンは13mであり、 このまま錦川に石造アーチ橋を複数連ねた橋を造れば、巨大な堰を川の中に造ることになり、堰きとめられた水流は 流れを変えて横山や錦見に流れ出すと考える。
下記は、建設コンサルタント協会の調査でスパンが長いと書かれているスカリジェロ橋だが、錦川の洪水の視点で見れば壁面が広い。
14世紀、イタリア ヴェローナ スカリジェロ橋 スパン48.7mの石造アーチ橋
アディジェ川(イタリア語: Adige)は、イタリア北部を流れアドリア海に注ぐ、イタリアで2番目に長い川である。 ヴェローナにある橋でスパンが長い。


アーチ構造の原理
東京大学生産技術研究所 腰原幹夫教授によると、錦帯橋創建(1673年)の約100年後に書かれた 方圓順度には反橋のスパン・高さなどを算出する方法が記載されている。 また、錦帯橋の原図には幾何学で重要な点に基点としたへらの跡が残っており、アーチ作図の図面は残ってないが アーチの原理を理解して作図した可能性が高い
元禄時代の錦帯橋図面には寸法が併記されており、これから腰原幹夫教授が幾何学的なアーチ形状を作成すると 第三橋のアーチの半径は橋脚間と一致した。つまり綺麗な正三角形になっており、当時の棟梁が意識的に 作図している。第二橋、第四橋の反りは高さを押さえるために低くしているが、ぴったりアーチ構造である。
企画
条件1 川の中に柱を立てない
条件2 洪水に堪えられる
条件3 200mの川幅がある
条件4 垂直方向の重量に堪えられる
この条件を満たす橋として、
川の中に水切り専用の橋脚を建てる
橋脚の上に、水に浸からず最大のスパンを持つ橋を架ける
どれが最大のスパンが出るか、地上で様々な実験をしたようである
アーチ構造模索
当時、中国の石造りアーチの平均スパンは13mに対して、木製アーチはスパン35mが可能であった。
東京大学生産技術研究所 腰原幹夫教授の言われるように、当時最先端のアーチ構造の原理を理解して試作を繰り返したようである。
木造アーチ構造を選んだ理由(推定)
ヨーロッパや中国で一般的なのは石造アーチである。 錦帯橋を木造アーチ構造にした理由は古文書に書いてないので憶測である。
〇周防岩国は97%が山林で木材が豊富にある
〇日本は地震大国で戦国末期大仏が崩落したこともあり、耐震構造は木材のほうが優れている
〇毛利・吉川・小早川家は戦国時代を通じて、砦・城・神社仏閣等の建築を頻繁に行っている
〇木造アーチ構造はスパンを35mと長くできる
〇錦川を渡り大手門につながる橋なので、戦のときは防御のため破壊しやすいほうがいい。
また、上に平らな板を張らず、太鼓状のままにしたのは
〇馬は渡れないし、重い鎧を着けたまま歩いて渡るのは困難だからと聞いたことがあります。
(但し、戦後進駐軍の若い米兵は夜間ジープで錦帯橋を渡って遊んでいたそうです。 ジープは馬力があるので渡れるのでしょう)
陸組
錦帯橋架け替えの時、錦川の現場で架橋工事する前に陸の上で組み立てる工程がある。初めて錦帯橋の木製アーチ橋を考案した時も、 何度となく陸の上で組立・解体を繰り返し現在の構造になったと考える。
古文書によると、手柄があったとして殿様から褒美が出ている。次が目録である
宇都宮杢之允、祖式惣左衛門:普請奉行で呉服弐ツ
中島一郎右衛門:作事組の頭で呉服壱ツ
児玉九郎右衛門:大工で設計者。米五石
児玉慶次郎:2代藩主吉川広正公に仕えた大工
佐伯安右衛門:大工棟梁。金子2分
戸川利右衛門・宮原又右衛門:石工棟梁。米二石
東小右衛門:普請方事務主任。金子2分
山田以下7名:普請方会計。金子2分
長以下15名:普請方大工および事務官。金子1分
下肝以下6名:足軽の大工。金子1分
やり声角介:木遣りの音頭とり。銀3両
注目すべきは、錦帯橋は力学的に難しい弓のようなアーチ構造になっている。メソポタニア文明でアーチ構造ができてから、約6000年の歴史があり、 中国のアーチ橋は半円構造が多い。
当時の日本でアーチ構造の仕組みを知る人はどこにもいないなか、周防岩国のさむらい集団が、たった15年で弓形アーチ構造を実現したのは地元ながら驚嘆である。
架橋・橋板は約20年おきに計画的に架替え
  錦帯橋の架橋・橋板は木材なため、創建以来計画的に約20年おきに架け替え・橋板張替えを行っている。
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橋脚と石畳
錦帯橋は1673年創建の翌年、洪水で3つの橋脚が崩壊したが、湯浅七右衛門が築造した橋脚だけ崩落しなかった。 湯浅七右衛門だけ橋脚周辺の河床下に強固な敷石を行っていた。1675年、湯浅七右衛門と米村茂右衛門を 近江の戸波駿河のもとに派遣して穴太衆の技術を習得させた。 1676年、1677年、河床敷石工事や捨石工事を行い橋脚周辺の補強を行っている。 岩国市横山 財団法人 岩国保勝會 1950年1月発行
錦帯橋の由来及び其構造によると、

錦帯橋の真価は木造橋より河床下の埋没工事:

洪水に負けない仕掛けは橋脚の下にあり、目には見えないが大努力がある。 (注 最近地震や大雨による堤防決壊があるが、堤防下の重厚な基礎工事こそ重要だと江戸時代初期に気付いている)

橋脚の先端は船の先端のように水を切る菱形になっている:

激流が橋脚に当たると後ろ尾の部分に渦巻きができて、小石を巻き上げ、橋脚内部が空洞になることがある。 先端が尖り真ん中付近が緩やかに丸くなる大型船舶の船底と同じ形状であり、現在の流体力学に近い合理的な形状をしている。

河床下に三層の石畳:

橋脚の河床に埋まる前後左右が洪水で洗い流されると橋脚が根底から崩落する危険があるので橋脚の上流下流に三重の敷石が施している。 一層目と二層目は見えないが、最上部の第3層部は一部が石畳として見えている。

最下部、一層目の敷石:

川の両岸間、橋脚の上流下流60間に生松の乱杭数万本を打ち込み、その杭の間に大石、中石、小石を取り混ぜて詰め込んだ。 記録によるとこれには河船で延べ数万回運搬したと記されている。人力による大工事である。

中敷の二層目敷石:

川の両岸間、橋脚の上流下流40間に、荒石を混ぜ合わせて敷きこんだ

最上部、一層目の敷石:

川の両岸間、橋脚の上流下流20間に、石垣を積み上げる迫持構造で敷きこんだ

このような河床下の構造にすれば、上流から底を這うように石が流れてきても、第一層と第二層間の壁、または第二層と第三層の壁に引っかかる。 激流も2つの壁で勢いが削がれる。

敷石は魚のうろこ

昭和九年((1934年)十月、岩国市川西在住の穴太積み職人 が書いた冊子 錦帯石垣敷石聞書によると、 水中の石垣は下流から上流に向かって石を据える。 水流に逆らわない用に前下がりで据え、石の角に水流の圧が集中して動かないように上流側は平らで丸みを帯びた石で 下流側は下流側の石の上におく。 (多分、魚のうろこのように下流側の石を上流側の石が押さえることで、水流が強くなるほど底に押し付けられる))
橋脚は、276年間、洪水に耐えた
(1)創建    延宝 元年10月1日(1673年)
(2)三橋脚崩落 延宝 2年 5月28日(1674年)
(3)再建    延宝 2年10月15日(1674年)
         (276年間、安定)
(4)二橋脚崩落 昭和25年 9月14日(1950年)
(5)再建    昭和27年12月 6日(1952年)
         (60年以上、安定)
河床下石畳の現状
平成6年錦帯橋上流右岸側に鵜飼広場を整備したとき、矢板を錦帯橋上流20mから198mに打ち込んだが 捨石は確認されなかった。洪水で、河床に2〜3mの穴があくこともあるので小さな捨石は流失したようである。 錦帯橋と臥龍橋の間の河原には無数の石が堆積しているが、これが名残かもしれない。

現在の石畳

岩国市錦帯橋世界遺産推進室資料より抜粋
昭和26年の架け替えにとき、広範囲にわたり捨石を施している。
岩国市は昭和55年より計画的に最上部、一層目の敷石を修復している