岩国市史
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第二部 藩政時代の岩国
第三編 社会
第二章 城下町岩国の成立
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第二章 城下町岩国の成立
第一節 近世都市の発達
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岩国は城郭を中心に役所や家臣、町屋などを配置した城下町である。
戦国時代、城は天険の要害に構築して規模は小さかったが、織田・豊臣の時代になると
戦術の転換から兵力を居城周辺に集約して政治の中心となし交通の要所であった。
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当時、九州・中国・四国の大名衆は居城中心の大城郭を計画的に造り始めた。
第二節 城郭の構造
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吉川広家が考えた城下町全体構想の下、城郭、家臣の屋敷割り、錦川堤防工事などの建設工事が同時併行で進められた。
横山を城郭用地に選んだのは実地検分ではなく、家康が周防上方口で福島正則に備えよと内意を伝えたときに
決まった。
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母堂が住む上の土居、続いて藩主が平常居住する土居を建設した
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土居の主要建造物は表御殿・納戸・裏御殿である。表御殿は土居の東半分を占める正殿であった。
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表御殿は藩主が使者や家臣との面会する場所で、御用所は役人の詰め所、納戸は藩主が普段いる場所で、裏御殿は
藩主の家族が住んでいた
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要害の構築
1602(慶長7)年、五月、京都にいた広家より要害の案が決まったと岩国の普請奉行に書状が届き、
準備は整った。しかし六月、にわかに伏見城の石垣普請を命じられ二宮兵介・祖式九右衛門が上京した。
1603(慶長8)年、山頂で城の起工式を挙げたが、江戸城の修築手伝いを命じられ人数を派遣した。
広家は4月から7月まで公勤のため京都に滞留している
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城普請と併行して土居の小普請も行っていた。
城普請が本格的に行われたのは、1604(慶長9)年から1606(慶長11)年で、1607(慶長12)年土木工事は完成して
城番が定められた。
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三層の天守に矢倉五つ、大門二、埋門一、井戸二があった。
第三節 近世都市の発達
岩国は、吉川氏の入封により一挙に人口が増加した
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出雲から随従してきた千数百名の家臣およびそお家族、消費生活を賄う数百人の町人およびその家族、合わせて1万人近い
人口を収容する家屋敷と、都市機能が必要であった。
藩主は、これら移住者に土地選択の自由を許さず統治に都合のよい一定の区画と規模を定め、身分に応じてその枠に押し込めた。
城の大手に当たる横山・錦見・川西・今津の一部が都市計画の対象になった。
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1601(慶長6)年、広家自身が横山屋敷分けを行った。錦見は松岡・祖式・草野が屋敷分けを行った。
計画を立てるのが1601(慶長6)年で、実施は1602(慶長7)年である。
計画立案時点で、錦見には川が流れており横山には永興寺があり門前町があった。千石原は川の中であった。
堤防を築き錦川の流れを整えるのに約1年かかっている。区分けは碁盤の目のように縦横の道路で区切った。
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区画は碁盤の目が基本だが、地理的条件や軍事上歪曲した所もある。
横山は上級武士の屋敷と藩の公舎限定で、町民の住む町屋は錦見、幹線道路の左右は中級武士階級の屋敷とはっきり分けている。
侍屋敷の一部は外郭に配置されることもあった。軽輩の屋敷の多くは城下の外郭に置かれ、町屋の外側に多くの足軽屋敷が設けられた。
今津は、藩の水軍拠点地として、船手の屋敷がおかれた。
1000軒近い侍屋敷、230軒の町屋敷を横山に150軒、錦見に780軒、今津に100軒、川西に150軒を配分した。
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錦見の屋敷割りは松岡安右衛門・祖式九右衛門・草野豊後等が行ったと伝える。町屋は間口が狭く奥行きが長いので町人の代表者が行った。
侍屋敷の屋敷割りは幹線道路左右の中級武士で平均150坪、外郭部の足軽屋敷で平均90坪である。
錦見はもともと川底で河筋を変えてできた敷地なので屋敷を建てるとき多くの資財・労力を要すので狭い敷地のほうが好まれた。
町屋の中心街を本町とし、上手より玖珂町・柳井町・米屋町・塩町の4町に分け、その裏に材木町・魚町・豆腐町を設けた。
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城下町の町方街路には木戸門を設ける慣わしがあり、木戸番を置き夜警に備えた。
城下町の興隆政策
町屋の商業活動を活発にするため、城下町の町屋と柳井町以外の商業行為を禁止した
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更に城下町建設を促進するため錦見の町屋敷は地子を免除された。寛永年代末(1644年)頃まで続いた。
第四節 城郭・城下の消長変遷
要害の破却
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1615年、幕府より発令された一国一城令により、毛利家は山口と下関の城を破棄するので岩国城も破棄するようにとの通達があった。
広家は毛利輝元に周防の国に城1つで問題ないと抗議したが輝元のご意向であるため、破却せらるるようにとの命令があり、
取り壊しを決定した
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城下町の変遷
干拓の進展により侍屋敷の端が東に伸びた。川西・錦見の一部にも侍屋敷ができた。
また土手町が町方区域に編入された。
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岩国開府後40年で、川原町、今津町の屋敷数は増加し、町屋は約3割増加している。
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今津町は2度の大火があり、町割を新しくするたびに家の数が増加し当初の倍になった。また
中津に2代目藩主吉川広正の隠居所ができ、周囲に随従過信の屋敷ができるなどで侍屋敷140軒と町屋30軒が新たに増えた。
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川西に町屋敷ができ、屋敷が次々に増えた
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