岩国市史
吉川広家相続〜関が原直後
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第一部(A) 岩国移封前における吉川氏史概観
第二編 吉川広家の活動
第三章 関が原役前後における広家の苦心経営とその成果
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第二編 吉川広家の活動
第三章 関が原役前後における広家の苦心経営とその成果
第一節 石田三成等の陰謀と広家の行動
秀吉の死後、加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長等は家康の派閥、石田三成・小西行長・
宇喜多秀家・島津義弘・上杉景勝等は反家康派閥で対抗していた。
会津に帰休していた上杉景勝は家康の10罪を挙げて責めたので、家康は大いに怒り会津征伐を決行するに至った。
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・1600年、家康は、毛利輝元・吉川広家にも会津討伐軍に参加するように命じてきた。
石田三成・大谷義隆・増田長盛等は佐和山城で謀議をこらし、上杉景勝と相呼応して家康を挟撃する計画を立てた。
当時、広家は出雲富田城にいたが、会津出兵のため七月六日富田城を出発し、七月十日明石に到着した。
明石には安国寺恵瓊の使者がいて共に、大阪に至った。
安国寺恵瓊は三成の計画を打ち明け、輝元と一緒に大阪城に入城することを勧説した。
広家は次の3か条を理由に、これに反対し、入城を拒絶した
(1)毛利輝元は家康と兄弟の契りを結んでいる。正当な理由なく破棄できない
(2)家康と大阪側が決戦に及べば、家康の勝利は確実である
(3)毛利元就の遺訓に、「毛利家が中国で5〜10カ国領有したのは望外のことであるから、子孫は天下を争ってはならない」とある
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広家は大阪方の特使が輝元の上阪を促すため広島に下ったと聞き大いに驚き、早速使者を海路、広島に送った。
しかし、輝元が大阪に向かう船と使者の船は入れ違いになり輝元は大阪城の西ノ丸に入城した。
そこで、広家は輝元が大阪に入城したのは秀頼擁護であって、三成の陰謀とは無関係である事を、親友の
黒田長政を介して家康に釈明し、諒解を求めることにした。
第二節 広家の重大使命達成
広家は黒田長政への密書を書き、家臣の服部治兵衛・藤岡市蔵に託し、敵中突破して長政に手渡すように命じた。
家康はこのとき小山にいて、三成側が伏見城を攻めたとの知らせが届いた。
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諸将と軍議を開き、主力軍は反転して大阪に進軍することにした。
服部治兵衛・藤岡市蔵は黒田長政の家臣西山吉蔵を伴い、伊勢の御師に変装して関所を通り抜けていった。
艱難辛苦をなめつつ、小田原と大磯の間で黒田長政に面会して広家の密書を渡した。
そこで、黒田長政は使者2名と家臣の小川喜介を付け家康に謁見させた。家康は二人の使者に面接し、
毛利輝元が家康に叛心が無いことを確かめて大いに喜び、使者には褒美を与えて労をねぎらった。
このとき、家康が長政に与えた手紙「(原文)」
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この手紙に長政の手紙を添え、吉川広家の使者、服部治兵衛に持たせて広家の陣所に返した。
使者、藤岡市蔵は2便に備えて黒田長政の陣に滞留した、
黒田長政書状「(原文)」。
この手紙は5つに切り、笹の緒に撚り込んで服部治兵衛は持ち帰った。
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服部治兵衛は艱難辛苦の末、家康と長政の書状を広家に渡した。
西軍は鳥居守る伏見城を攻撃して陥落させ、毛利秀元等と共に広家も、これに参加した。
広家はこの後、近江の瀬戸で築城工事を手伝い、しばらく関の地蔵で退陣していた。
西軍は毛利秀元や広家を含め、約4万の大軍で富田信高が守る阿濃津城を攻め落とした。
毛利秀元・吉川広家はそのまま南宮山に着陣したが、黒田長政は非常に当惑し、陣中に留めおいた藤岡市蔵に
書状を持たせ広家に届けた。
「書状(原文)」
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藤岡市蔵は艱難辛苦をなめつつ南宮山の広家に書状を届けた。広家は輝元の重臣堅田兵部小輔を大阪から呼び寄せ、
広家の方針を詳しく説明して大阪城にいる輝元を説得するように依頼したが、輝元からの返事はなく、まして輝元が家康に陳謝する気は
無かった。
黒田長政の書状を見て、広家は東軍に内通することに決心した。
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南宮山に陣を敷いていた毛利秀元の諸将は徳川軍と戦う気でいたが、福原広俊のみは広家に賛同していたので
福原広俊と熟議を重ね、関が原開戦の前日、家臣の三浦伝右衛門に伝家の鯰形兜を着用させ、赤坂に滞在中の黒田長政に
「毛利・吉川とも徳川に忠節を尽くします」といった内容を伝えた。
黒田長政は福島正則と相談した上で三浦伝右衛門を家康の本陣に連れて行った。
吉川広家と福原広俊の誓書と人質が届いたら、家康自筆の誓書を渡すが、差当り井伊直政・本田忠勝連署の誓書を渡した。
黒田長政は福島正則も誓書を認めた。三浦伝右衛門はこれら誓書を無事南宮山の吉川広家・福原広俊に届けた
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井伊直政・本田忠勝連署の誓書
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黒田長政・福島正則連署の誓書
これら誓書には次のことが書かれている
(1)家康は輝元を粗末に扱わない
(2)吉川広家と福原広俊を粗末に扱わない
(3)忠誠を尽くすことが確認できれば家康自筆の誓書を輝本に渡す。領地は安堵する。
黒田長政・福島正則の使者が広家の陣所にきて、
福原広俊の弟左近と毛利家家臣粟屋彦右衛門の子十兵衛を人質に差し出した。
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正式な和議が成立したので翌日の戦では中立を厳守して南宮山に在陣することにした。
南宮山には長束正家、長宗我部盛親がいたが、長束正家が南宮神社付近で浅野隊や池田照正と衝突するので
これを排除して、吉川隊が南宮山麓に先鋒として布陣した。
15日早朝、家康は南宮山麓でなんら妨害を受けることなく関が原に布陣した。
第三節 関が原役における広家の態度
両軍15日深夜から早朝にかけて布陣した
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東軍の先鋒は福島正則隊と黒田長政隊で、其の後ろに藤堂高虎隊・加藤嘉明隊の諸隊が続き、松平忠義は前軍を統率するため
中央から進んだ、家康は桃配山に本陣を敷き、本田忠勝・浅野幸長・池田輝正は南宮山に備えた。
やがて九月十五日午前八時頃より東西15万の将兵による合戦が始まった。両軍入り乱れて奮闘勇戦したが正午になっても
趨勢が決まらなかったが、小早川秀秋は突如、松尾山を下り大谷吉隆の陣地を襲い、脇坂・朽木・小川・赤座の4将も
東軍に内応したため大谷吉隆の陣は崩れ大谷吉隆は自害した。
続いて小西隊・宇喜多隊が崩れ粉砕された。三成・島津の隊も総崩れになった。
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石田三成は逃亡し死傷者八千人を残して西軍は崩壊した。
長束正家、長宗我部盛親、安国寺恵瓊等は伊勢に逃れ、毛利秀元は兵をまとめて近江から大阪に帰陣した。
吉川広家は関が原合戦が終わった当日(九月十五日)、使者を家康の陣中に派遣して戦勝を祝した。
翌九月十六日、福島正則・黒田長政の指示で南宮山の陣営を撤去し、近江の佐和山の家康の陣所に到り、次いで
家康に随従して八幡に移った。この日、広家は関が原始末書を作成してこれを輝元に贈った。
第四節 輝元の大阪城西ノ丸撤退
大阪城には東軍諸将の妻子が人質になっており、家康はこれを奪還するため毛利輝元と平和的に交渉する事にした
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福島正則・黒田長政連名の書状を福原広俊に託し大阪城へ遣わし、輝元に渡した。
家康は輝元を粗略に扱う気はないので相談しようという内容である。
{書状の原文)
輝元は大いに喜び、福島正則・黒田長政ぶ深厚なる謝意を表した。
{書状の原文)
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毛利輝元は、家康が本領安堵するなら、大阪城西ノ丸から異議なく撤退する旨の誓書を井伊直正・本田忠勝宛に渡した。
(誓書原文)
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福島正則・黒田長政宛の誓書原文
家康は輝元の誓書を見て大いに喜び、九月二十五日、池田輝政・福島正則・黒田長政・浅野幸長・藤堂高虎の5名を
大阪城に遣わし二の丸受け取りを命じた。
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このとき5名は連署で、次のような誓書を輝本に渡し本領安堵は間違いないと保障した。
(誓書原文)
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輝元はこれら誓書を見て本領安堵は間違いないと確信し、西ノ丸を出て大阪木津の私邸に移った。
5名は直ちに西ノ丸を占領し、家康は大津を立ち大阪城に入城した。家康は秀頼と会見した後、
西ノ丸に移り、秀忠は二の丸に移った。
輝元は、これらは吉川広家がお家存続のため努力した結果だと解釈して、広家に感謝の書状を送っている
大阪入城後における徳川氏の態度硬化と広家緩和運動の成功
家康は大阪城を完全に占領してから人質になっていた妻子を諸将に引き渡した
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家康の腹心が輝元の行動を慎重に調査した結果、奉行衆と共謀して家康に反抗していた事実が明白になった。
家康は大いに激怒し数次に渡って本領安堵の誓書を渡したが全て反故にし、輝元の領土全部を没収する事にした。
広家には1〜2カ国与える事とし、黒田長政から広家に通達した。
(通達した原文)
福島正則の調べでは奉行衆と同心して各所に内通の書状を送っており、四国にも兵を差向けている。
吉川広家には中国内に1〜2カ国与える。速やかに家康のお墨付きを得るため面会したほうがよい。
この時、お供は馬周り3〜4人、槍は持参禁止。分別を持って行動してくれ
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吉川広家にとっては晴天の霹靂であった。黒田長政は毛利家存続を願うあまり吉川家も危うくならない様にとの
諭した書状を遣した。
吉川広家は肺腑から搾り出した様な悲痛極まる次のような誓書を福島正則・黒田長政に送った
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(原文)
「今生、後生、しるしを差上」などの文字があり、死を覚悟したようだ
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(現代文への翻訳)
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吉川広家はこの誓書が受け入れられない場合は切腹する覚悟で、介錯人を森脇作右衛門に依頼していた。
家康は吉川広家の苦悩を理解して広家に与えようとした防長2ヶ国を輝本・秀就に与え、かつ輝元の命を保証した。
(家康から輝元への誓書原文)
一、周防長門2ヶ国を与える
一、父子の命を保証する
一、嘘を言ってたので究明する
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輝元は家康の誓書で毛利家が存続することを喜び、かつ責任をとって家督を毛利秀就に譲り隠居した。
また井伊直政に誓書を出し、今後徳川氏に忠節を尽くすことを誓約した
(誓書原文)
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吉川広家は毛利家の重臣と連署で黒田如水・黒田長政宛に毛利家存続のため尽力されたことを感謝し、今後忠誠を励むことを誓った。
黒田長政は毛利父子に、家康に忠節を尽くせば従来通り昵懇にすると誓書を送ってきた
(誓書原文)
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家康は吉川広家の労をねぎらい、千寿院の脇差を贈った。
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仮に関が原の戦の時、南宮山の毛利軍が東軍に襲い掛かったとした場合、南宮山麓に池田・浅野・山内等の2万が配置されており
桃配山の徳川軍も参加した戦になり関が原前線への影響は少ない。
また、毛利・小早川軍が活躍して西軍が勝利を収めても秀忠率いる徳川の主力4万が中仙道を進軍中であり、
これとの大戦になる。大勢は徳川側有利で長期的には家康が天下を統一すると推察される。
吉川広家は、このような内容を記載した関が原始末書を輝元に進呈している
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関が原始末書の最後には高松城で信長死去の報を受け、秀吉を追いかけて攻めようという意見を抑え分別を持って
対応したことで毛利家の領土が安堵されたと叔父の小早川隆景が自慢していた。分別がたいせつである。
第6節 広家の大阪撤退・岩国の由宇へ移住
家康は、広家に周防国東部に居城を構え、芸備両国の領主になった福島正則と協力して忠勤を励むように命じた。
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広家は輝元父子から周防国の玖珂・大島の2郡三万石を拝領した。月山富田城にいた母と側室は家臣と共に石州路を経由、
山代、松尾峠を越え、岩国を通過して玖珂郡由宇に到着した。
広家は1601年、京都から海路由宇に到着した。由宇はきわめて狭い土地で、領内各地を調査した結果、岩国を本拠地に定め
1602年、岩国に移住した。この地は周防東部の要衝で錦川が歪曲して流れ山紫水明の景勝要地であった。
山頂に堅牢な城郭、山麓に居館を築き、錦川の堤防改修工事で平地を造り家臣の住む城下町を構築、商店街の区画整理など
吉川氏三百年の基礎を築いた
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