関が原の戦後

Menu

HOME錦帯橋創設のいきさつ時代背景→ 関が原の戦後

概要

(奉行衆と家康の対立)
吉川広家は吉川元春、吉川元長の跡を継ぎ九州鎮圧・朝鮮の役で武功を立てた。 石田三成らの奉行衆は朝鮮の役が失敗したのは派遣した将兵の責任なので、減封・移封すべきだと 秀吉に諫言した。これに激怒した武将衆をなだめたのは家康で誰にも責任はないと裁定案を無効にした。 家康はこれを契機に朝鮮出兵で功績のあった武将衆をまとめ、広家も家康に同調していた。 家康は秀吉死後、露骨に秀吉時代のルールを無視して大名との婚姻を進めるなど行ったため、上杉景勝は 会津に帰休して家康の10罪を挙げて責め家康は激怒して1600年、上杉征伐が始まった。

(家康側に味方)
家康が上杉討伐に出発した時、吉川広家は上杉討伐軍に合流するつもりで月山富田城を出発していた。 途中、安国寺恵瓊が待ちうけ西軍に加勢するように勧誘したが
(1)毛利輝元は家康と兄弟の契りを結んでいる
(2)もし戦になれば東軍の勝利は確実である
(3)毛利元就の遺言で、これ以上の領土は無用であるから天下を望むなといわれている
これを理由に西軍に味方せず、黒田長正を通じて徳川家康と内通して静観を守った。 京都伏見城攻めや三重安濃津城攻めには毛利秀元や西軍武将と共に参陣したが、 南宮山に陣取り、 家康に対して誓詞と人質を出して東軍に味方することを明確にした。

(毛利輝元の行動が詮議され全領土没収)
関が原戦後、家康は大坂における毛利輝元の次の行為を理由として毛利家を取り潰そうとした
(1)奉行衆と連名で東軍武将の内応を誘った書状が見つかった
(2)四国に兵を出していた

(毛利家存続を懇願)
吉川広家はしるし(首)差出す覚悟で本家存続を懇願した。 吉川広家に与える予定であった長門国・周防国2カ国を毛利本家に与え、 吉川家はあらためて毛利家から周防岩国を所領を授かった。 出雲月山富田城を領有していたときは13万石あった所領が 周防岩国では3万石に減封になった。




参考文献

岩国市史

岩国徴古館 岩国市史編纂所 編集
岩国市 昭和32年(1957年)6月 発行(非売品)
発起人  第三代岩国市長 津田弥吉
発行者  当時の岩国市長 土肥京一
編集者  瀬川秀雄(文学博士)、桂、村上、香川


注 岩国市史は現在でも岩国徴古館 岩国市史編纂所が編集・発行している。参考にした岩国市史は昭和32年発行のもので、 岩国市の歴史は「岩国市史」以上に詳しいものはない。 本出版物は行政機関が編集したもので、岩国市の礎を築いた吉川家の歴史や行政を後世に伝えており、岩国市民への 公告の意味があり、また著作権の記載がなく非売品である。発効日から50年を経過しており原文を掲示します

   操作法:ページ縮小図を押すとページが拡大します。拡大後、周辺の黒い部分を押すと閉じます。

TOP