岩国市史
吉川広家相続〜関が原直後
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第一部(A) 岩国移封前における吉川氏史概観
第二編 吉川広家の活動
第一章 広家の九州鎮定・上洛・結婚及びその移封
第二章 朝鮮役における広家の苦心経営とその成果
28頁
操作法: ページ縮小図を押すと拡大ページになり両端を押すと頁めくりです。拡大後、枠外周辺を押すと閉じます。
-
第二編 吉川広家の活動
第一章 広家の九州鎮定・上洛・結婚及びその移封
第一節 広家の九州鎮定
・1587年、九州鎮定後、肥後の諸豪は新しい国主佐々成政に反乱して各地に兵を挙げた。
騒乱は肥前・豊前に拡大して事態は重大化した。秀吉の命で豊前に出兵した吉川広家は小倉城主毛利吉成と協力して
豊前の岩石城、城井谷、福島の諸城を攻略した。更に肥後に進軍し、小早川隆景と協力して肥後を平定した。
一旦、長府に凱旋したが再度反乱の兆しが見えたので、輝元は筑前、隆景と広家はは肥後に駐屯して掃討した
単ページ
-
広家の上洛・結婚及びその移封
・1587年、秀吉は輝元、隆景、広家を聚楽第の招いて盛宴を催して歓待し、次いで太刀を贈り、
羽柴氏豊臣の姓を授け桐頭の紋の使用を許した。更に秀吉の計らいで宮中に参内して天盃を拝受した。
また広家は従4位下に叙せられた。
夜聚楽第における観月和歌の会に毛利輝元・小早川隆景と共に吉川広家も招かれ和歌を詠んだ
単ページ
-
秀吉は宇喜多秀家の姉を、秀吉の養女とし吉川広家の妻にと申し出た。
身分が違いすぎると拝辞したが輝元・隆景の勧誘を受け入れて受諾し結婚した28歳であった。
しかし、夫人は病弱で3年後に逝去した。
・1590年、秀吉の小田原討伐のとき、吉川広家は手兵五百で尾張の星崎城、ついで三河の岡崎城の守備に当たった。
・1591年、秀吉は毛利輝元に112万石の朱印状を与え、吉川広家は尼子が居城とした月山富田城12万石とした。
単ページ
-
吉川広家は長年住み慣れた新庄から富田城に移封になった
第二章 朝鮮役における広家の苦心経営とその成果
第一節 文禄役における広家の偉勲
秀吉が朝鮮征伐を決めた理由は定かでないが、明国が日本国王に封すと屈辱的な関係を押し付けている事に憤慨していたとも言われている
単ページ
-
・1592年、吉川広家は出兵の命を受けて出雲の富田を5000の将兵と出発し、肥前の名護屋経由で釜山に上陸した。
加藤清正・小西行長が先鋒になり破竹の勢いで北上し京城を占領し、宇喜多秀家・小早川隆景・黒田長正等の諸将も京城に入城した。
単ページ
-
この期間、吉川広家は毛利輝元と共に慶尚道に在陣して後方の守備につき朝鮮兵を掃討していたが、
十二月には開城に北進して小早川隆景と前線方面の守備に当たっている。
・1593年 秀吉軍の平壤進出は明を驚かせ、明兵4万が朝鮮兵17万と共に平壤に来襲してに総攻撃をかけてきた。
明軍は大砲を持ち城を崩した。明が連れてきた馬は日本馬より大きく早く機動力が優れていた。
また秀吉軍は補給が届かないため飢え悩まされた。
平壤を守備していた小西行長は防戦に努めたが約20万の包囲軍に耐え切れず撤退し、各地の秀吉軍将兵も京城まで撤退した。
・1593年、明軍は開城を目指して南下して小早川隆景・吉川広家軍と衝突した。高陽において吉川広家は自ら槍を持って敵の前線に
突撃して奮闘力戦し明・朝鮮兵約6000を討ち取った。
単ページ
-
軍奉行の石田光成は、高陽における吉川広家の働きに感状を贈っている。明軍は平壤まで撤退したが朝鮮軍は3000の兵で
京城の西方三里の幸州山城を占拠した。
・1593年 幸州山城を攻めると決して、吉川広家は小早川隆景・小西行長・石田三成・増田長盛・宇喜多秀家・大谷吉隆・
黒田長政と共に攻撃を仕掛けた。兵の損傷は激しく三成・秀家・長政は負傷したが第一郭を破り、第二郭に迫った。
広家も負傷したので撤退したが朝鮮兵も翌日城を捨てて撤去した。
単ページ
-
明より和議の申し入れがあり、秀吉軍は兵糧不足と悪疫が蔓延していたので受諾し、全軍、釜山周辺まで撤退した。
慶尚道南部の要衝晋州城には朝鮮の将兵7000が守備しており、秀吉の命でこれを討伐した。
5万の大軍で包囲して8日後に攻略した。広家は逃走する敵兵を掃討し関白秀次より朱印状を得た
単ページ
-
秀吉の命で朝鮮南部沿岸の要地に18の城を構築した。広家は釜山から二里余りの東来に城郭を構築して1年有余守備していた。
・1594年、広家は秀吉から帰国の命を受け秀吉に謁し、宝刀と名馬を拝受した後、富田に帰休した。
当時、東来には虎・豹などの野獣がいたので生きたる虎数頭と豹1頭を秀吉に献上した。秀吉は虎肉を薬用に食すとの
ことで更に塩付けの虎肉を献上した。
単ページ
-
広家が内地に送った朝鮮兵の鼻は1万8千3百あり、如何に多くを討ち取ったかわかる。
第二節 慶長役における広家の偉勲
・1596年、明国の講和使節団が大阪の秀吉に謁見に来た。しかし明からの国書には「汝をして日本国王となす」という
無礼な言辞があったので秀吉は怒り明の使節団を放逐、和議を破棄して再度出征することになった。
小早川秀秋が大将になり、毛利輝元に代わり毛利秀元が従軍した。
広家は富田を出発して釜山に上陸した。全軍を二手にわけ、宇喜多秀家は左軍の主将、毛利秀元は右軍の主将として
進軍を開始した。広家は加藤清正・黒田長政・鍋島直茂らと毛利秀元軍に加わった。
単ページ
-
朝鮮は冬季に入り極度の低温で凍傷にかかり武器を持てない兵士が出て進軍困難になったので、七城を構築して守備に徹する事になった。
秀吉軍が守勢に入ったのを知った明・韓連合軍4万は蔚山城を包囲攻撃を始めた。
大陸の寒気は日本と違い酷烈で凍傷で鉄砲の引き金が引けない兵がでたり、また兵糧が極端に少ないなど陥落寸前までになった。
多くの武将が救援に駆けつけた。広家も大和江渡場の高地から敵方を眺め全線に渡り動揺がある兆しがあるのを見て、
大和江の流れを横切り敵陣に突進し、自ら刀を抜いて将兵を斬殺した。吉川家臣も勇戦奮闘して約500の敵兵の首を挙げた。
黒田長政・藤堂高虎もこれを見て勇躍して進撃し、遂に明側の動揺が拡がり敗走した。
後日、籠城していた加藤清正が広家の陣を訪れ、この偉勲を激賞した。
単ページ
-
加藤清正は蔚山城から吉川広家が先鋒となり突撃する有様を見て感嘆していた。
しかし、広家馬印「蒲の頭」が小さく見え難かったので、清正の馬印「婆々羅」を色違いで御使用ありたきと
申し出た。清正が白で広家が赤にする事にし、明治まで引き継がれている。
その後、秀吉の命で蔚山城を修復した後、本国に帰還し、伏見の秀吉に謁見した後、出雲富田に帰着した。
やがて秀吉は病没したので明征伐は中止になった。
単ページ