橋の流失

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HOME錦帯橋創設のいきさつ時代背景→ 洪水で橋の流失

錦川の支流、宇佐川(四万十川の次に清らかな川) 

17世紀初頭の渡河手段

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当時、渡し船は日常的な交通手段で横山近辺では錦帯橋付近と、下流の臥龍橋付近にあり臥龍橋付近の渡し船は明治21年まで続いた。
写真は昭和25年、キジヤ台風で錦帯橋が流失した時の仮橋であるが、これも直後の洪水で流された。 17世紀、吉川氏が岩国に移封した当初もこのようなものであった。 日本では太古から西洋文明が導入されるまで、川幅が広く洪水が起きる川に架けた橋で、流失しなかったのは錦帯橋だけであった。

錦川の洪水
明治35年 (1902年) 8月10日 9.16メートル
昭和 8年(1933年) 8月13日 9.46メートル
昭和10年(1935年) 7月29日 8.39メートル
昭和20年 (1945年) 9月18日 9.40メートル
昭和25年 (1950年) 9月14日 8.90メートル キジヤ台風
昭和26年 (1951年)10月14日 10.02メートル ルース台風
1954年発行「名勝 錦帯橋再建記」より抜粋した、

また、最近はキジヤ台風より強力な集中豪雨が増え、2005年の台風14号では水位上昇で川岸の堤防を越えて民家が浸水する被害が出ている。
山口大学農学部 山本教授の論文「2005年台風14号(NABI)による豪雨と山口県錦川流域における洪水災害の特徴」 より表を抜粋
洪水時の流木
川の中に柱があると洪水時にゴミや流木が絡まる。その上に、他の流木も引っかかり大きな塊となり、そこに大きな水圧がかかり柱を流失させる。
古文書
岩国徴古館に残る江戸時代初期の古文書で、当時の様子が推測できる
旧藩主吉川家用達所の日記:「吉川家日簿」
岩国藩庁内部の日記:「御取次所日記」「御用所日記」「算用所日記」「御納戸日記」
民間で書継がれた岩国地区年代記:「岩邑年代記」「年代記」「岩邑歳記」
民間書籍:享保八年、宮庄親輔著作 「厳邑志」
民間書籍:安永八年、広瀬喜尚著作 「厳邑若干集」
民間書籍:明治後半、藤田葆著作 「厳邑沿革志」
民間書籍:明治二十年、南方書佐葆作 「厳山金玉集」
岩国藩2代藩主 吉川広正の時代
吉川広正公は寛永17年(1640年)には紙に関する法を定めて、紙の製造を保護して専売制度を設け、岩国領の経済・財政の有力な柱とした。 また錦川のデルタ地帯を積極的に干拓して新田の開発を行う等、領内の経済的基礎を作り上げた。
隣国、安芸との国境にある小瀬川を見下ろす台地にある瀬戸八幡宮を整備している

寛永十三年(1636年) 横山、渡船の通達

宇都宮杢之允が渡船の心得を通達している。
梅雨時期、水位が低いか風が吹く時でも渡船を行う。夜間、月明かりが有れば渡船を行う。道具は念入りに管理する。 渡し場から船が流れたら元の場所に戻しておく。盆暮れや見物客が多いときは渡し船を出す。 乗せ過ぎは駄目で事故を起こせば処罰する。渡し守に狼藉を働く者がいれば即刻、知らせるように。
など、細かく規則を決めている。 逆に言えば横山に出仕する者と渡し船の守役との間にトラブルが有ったようだ。

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寛永十六年(1639年) 横山橋 渡守への覚書

福〇神左衛門、大草伊兵衛、河上源助が渡守に覚書を出している
横山橋が損傷を受ければ、大小にかかわらず即刻修理すること。 雨のとき全員出仕して、
〇橋柱に流れ引っ掛かった物は外すこと
〇船筏を引っ掛けて橋に損傷が有った場合は、其の者を見つけ修理させる
〇橋柱に船筏をつなぐのは禁止
〇河で漁をする者は、橋の下で火を焚くのは禁止
以上から 寛永十六年(1639年)には柱橋が架かっていたようだ。

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明暦三年(丁酉)(1657年) 御取次所日記

殿様(吉川広正公)、河原に下りて橋をかけている様子をご覧になった。
墓地の普請場からご覧になったり、御荘付近の川で鮎を採る簗を見学、などが日記に書かれている

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橋の普請が成就したので九月十六日に渡り初めを行うと決めた。 清兵衛は子八名、聟一人、嫁一人、夫婦を入れて十二人で渡り初めを行うようにと仰せ付けになった。 橋普請方心得の岸勘兵衛、亀尾五郎右衛門を招き餅酒を振舞い、錦見にある藩の接待所で食事を出し、俵子(乾燥ナマコ)一荷(60kg)を与え労をねぎらった。

万治二年(1659年) 御取次所日記

五月十一日より水位が高くなり、五月十九日洪水となり、橋が流失した。

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万治三年(1670年) 吉川家請

殿様(吉川広正公)の隠居所を川下、中津村に造築す。
武家諸法度で新規に屋敷を造営する場合は、城郭の疑念を晴らすため老中の許可が必要であり、昨年、宗家の毛利家から老中に伺いを出していた。

熊谷元旦の漢詩「題橋並に序」

3代藩主 吉川広嘉公の侍医の一人で元禄五年(1692年)に逝った。
吉川広正公は数回橋を造った。洪水の時は急流が石を転ばし、欄干砕け、梁折れて一気に破落ち、工巧は虚しく徒労となる。
吉川広嘉公は先代の意思を継ぎ、更に超えんと志を立てた。
中流に石を畳み、五橋を架ける。橋は柱を立てることなく水を飛んで空に懸ける虹のようだ。以下、省略。

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元禄十一年(1698年) 『根笠行紀』僧一元著(洞泉寺住職)

今津川の河口から舟を曳いて錦川を上る。明け方近く秋の気配が清清しい。道祖崎の藤が岸にかかって暗い、吸江が淵の月は天を倒して澄んでいる。 飛橋空裏に龍蛇が走り、前の岩瀬に雷霆(かみなり)が鳴った。関戸の北、多田の暁寺称名の声

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1639年、1957年に橋が架かっていた記録は残っている。
吉川広嘉公の侍医、熊谷元旦が吉川広正公は数回橋を造ったと漢詩にあるが具体的な年度は不明である。

参考 錦帯橋下流の川西町が明治21年以降、木橋を何度も架け・流失した
江戸時代初期に吉川広正公が行った錦川への柱橋架橋を、300年後、川西町も行っている。
錦川に木製の柱橋を架け洪水で何度も流失している。
出典は、川西自治会ホームページ

   川西の渡し船は、渡し賃を支庁(役所)に申請し、許可を得て実施されていました。
 しかし、川を渡る度に渡し賃を払い、また洪水時には川を渡る事が出来ず大変不便なものでした。

 明治20年に“芦ヶ原 彦輔”(よしがはら ひこすけ)ら5名の者が発起してこの地に架橋する事になり、翌明治21年に完成しました。
 これが臥竜橋第1号です。橋が出来た事により渡し船は廃止されました。
橋の長さは105間、渡り賃は人弐文馬四文と規定されましたが、同年7月2日人往復参文と改められました。しかし同年7月31日洪水により流失してしまいました。
橋の必要性から工期間僅か18日間で再建されました。その後、下記のように度々の洪水により流失が続きました。

    橋の流失

1.明治21年7月31日
2.明治24年9月14日
3.明治30年9月30日
4.明治35年8月11日
5.昭和10年5月15日
6.昭和26年9月14日  (ルース台風)

   流失の原因は、多量の木材が橋脚に当り、その水圧によって押し倒される事でした。勿論各橋脚上流に流木防止の柵[水刎](みずはね)を設置しましたがそれでも橋脚を守る事が出来ませんでした。
 昔は上流の木材を市場に出荷するのにトラック等は無く、全て筏(いかだ)に頼っていましたが、洪水ともなるとこれらを含めた木材が流木となり一挙に橋脚を襲いました。
 
 岩国町では臥竜橋が度々流失し、又渡橋銭を要する不便さを思い、明治43年橋の持ち主に2000円を交付して譲渡してもらい、また修繕を行い翌44年1月31日渡橋銭を廃する事になりました。
 大正4年には橋は人力車、荷車、自転車等は空き車でなければ通行出来ないほど荒廃して来ました。岩国町では翌5年橋梁全部の掛け替えを決定し6年に完成しました。
その後大正14・15年年、昭和4年に修理を加えましたが老朽化がひどく、遂に再び掛け替えを決め、昭和10年起工式を上げました。
 
 同年11月木材を使用しない当時では全国でも類を求める事の困難な近代的なコンクリート橋が完成しました。(総工費12万6百94円30銭)
 しかしこの橋も昭和25年ルース台風により流失してしまいました。台風後仮橋の出来るまでは昔ながらの渡し船(現臥竜橋上流)が復活し、やがて仮橋(現臥竜橋下流)が出来、岩国町と往来していました。
 その間本格的な橋が建設されました。これが現在の臥竜橋です。
 臥竜橋は今日まで度重なる洪水に合い流失しましたがその都度人々の努力によって再建され、川西の住民に多くの恩恵を与えると共に地域の発展に大きく寄与して来ました。