創建時の石材は残っている

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キジヤ台風で橋脚2基が崩落する前日の1950年9月13日午後5時頃撮影した写真

橋脚の崩落
276年ぶりに昭和25年(1950年)のキジヤ台風で2基の橋脚が崩落し、2基の橋脚が残った。 木橋は約20年おきに架け替えを行っているので大工の棟梁はいるが、橋脚・河床石畳の石工はいない、また再建資金の調達方法など大混乱になった。
再建工事を行った岩国市錦帯橋建設局次長 品川 資 は 1954年5月に発行した「名勝 錦帯橋再建記」で原因を次のように書いている。
(1)直接的原因
イ) 橋脚が崩落したのは、河床の3層敷石のうち表面付近の敷石が長年の水勢で損傷を蒙り、橋脚下を洗い流す水流で橋脚石垣が緩み橋脚内部の砂利・栗石が洗い流された。 橋脚内部に空洞が出来、洪水時の水圧を受けて橋脚が崩落した
ロ) 木造の架橋は橋脚に固定しているのではなく、橋脚の上に置き、両端の架橋から押され突っ張りあう力でその場所にとどまっている。 両方の架橋から押される圧力は橋脚上の隔石を挟んでバランスをとっている。 橋脚が崩れると隔石がズレて無くなり、架橋の重さを支える圧力が無くなるので次々に崩れる。
(2)間接的原因
イ) 戦時中の錦川流域山林の乱伐で水勢・水量が急激に上がる傾向があった
ロ) 戦後の復旧工事で錦川河原の無計画な砂利採取があり河床が変化して水勢が強くなった。
ハ) 錦川上流のダムが放流するタイミングが悪いことがあり水勢が強く河床を損傷する事があった。
キジヤ台風に耐えた錦見側の橋脚
1950年9月21日撮影


キジヤ台風に耐えた横山側の橋脚
1951年の再建工事中に撮影

復旧方針
「名勝 錦帯橋再建記」に拠ると、復旧方針は次のように決まった。

東京西銀座の料亭「Aワン」会議

昭和26年1月下旬、岩国市当局、市議会関係者は大挙上京して、中央政府と交渉を重ねた。 昭和26年1月27日、東京西銀座の料亭「Aワン」に建設省、文化財保護委員会、山口県庁関係者、学者を招待して錦帯橋の原型復旧を訴えた。 本会議の席上、次の異論が出た
〇 橋梁はアーチ型にするも木製をやめて近代的な鉄筋コンクリート製に変更
〇 起橋点は腐食しやすい木製をやめ、コンクリート桁に変更
〇 普通の平坦な近代的な橋にすべき
しかし、岩国市当局、市議会関係者の熱心な説得、及び岩国市出身の建設省河川局防災課長加屋茂一氏、 岩国市と関係ある佐藤・青木工学博士等の 助言もあり、結局、原型通り復旧する結論にいたった。これにより、錦帯橋の再建と政府の再建方針が決まった 歴史的な会議といわれている

再建の方針

「Aワン」会議の2日後、建設省の河川局長、道路局長連名で岩国市長宛に正式な通達があった。 錦帯橋は少し前まで国道であり、 国道2号線ができてからは市道になったが、以下の条件を守れば工事費の一部を国庫負担するという内容で、 かつ原型復旧の根本方針が明確になった。
@橋脚の中心部は鉄筋コンクリートの井筒とし、地質調査の上なるべく深くすること
A井筒構造はさらに検討すること
B架橋の両端で橋脚の上に設置する木材部分は腐食しやすいので構造に留意すること
C高欄は古式に倣うよう工夫すること
D国庫負担の設計費・工事費を超過する場合は、岩国市の責任で調達すること
残った橋脚と河原に散乱した石材
岩国市錦帯橋建設局は、1951年に始まった再建工事の模様をすべて写真に撮っていた(約1000枚)。
其の中から、散乱した石材が写っている写真を選んだ。

フィルム04

崩落した橋脚石垣と瓦礫整理。12枚。


大正時代末期の錦帯橋
この写真は岩国市内の写真屋さんが大正時代末期に撮ったもので、崩落前の姿を残している。 現在の錦帯橋と違い欄干の親柱に偽宝珠が飾り付けてある。

橋脚再建工事
建設省の河川局長、道路局長通達の方針に従い、
@旧錦帯橋の深さ2mの基礎から深さ10mの井筒構造に変更
A其の上の心壁の周囲に、旧錦帯橋の石垣の石材を元通り積み上げ
橋脚基礎
岩国市平成26年3月発行、錦帯橋みらい計画11頁より抜粋
これにより鉄道橋並みの強度と、創建時の姿が復活した。 橋脚は河床から約9mの高さがあり、洪水がこれより高くなれば現状、両岸の堤防を越えて住居地域に浸水する
再建工事  崩落しなかった2基の橋脚については写真を撮り、かつ一個一個の石材に番号をつけ、原型通りに復元した。
  錦帯橋再建記
の150頁に当時の橋脚石垣復旧工事の模様がかかれている>
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石垣工事

新旧錦帯橋の比較
旧錦帯橋
1674年〜1950年(276年間)
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新錦帯橋
1952年〜
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旧錦帯橋

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新錦帯橋

河床下に3層の敷石
湯浅家古文書に大橋(錦帯橋)の記述がある。 橋脚を丈夫に造っても川中の敷石は流れて橋脚は崩れる。敷石を留める方法が穴太積みの秘法である。 (多分、川西町の穴太職人の冊子によると、魚のうろこの様に上流側石を下流側石に被せ、かつ上流側の角を下げる事で、川の流れが石を下に押さえ込む積み方)
最下層は上流・下流60間、其の上に上流・下流40間、最上部は上流・下流20間と3層の敷石を行ったと書いてある。 川を改造する大工事であろうが、河床下の工事なので現在の我々では確認できない。 平成年間に岩国市役所が最上層部の敷石を整備した記録はあるが、江戸時代から現在に至るまで、河床の中層・下層の石畳を改修した記録はない。
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河床下第一層の石畳整備