豪雨の時、錦川は水位が一気に上昇して激流になる |
岩国藩初代藩主広家は城下町の構想を示し、同時併行で築城、河川の改修、家臣団の屋敷造営、 海の干拓、田畑の開墾、大手門に架橋などの工事を進めたが、錦川への架橋が特に難工事で、 三代藩主広嘉が完成するまで約70年かかった。洪水で流失しない橋を架けたのは江戸時代を通して日本では 錦帯橋だけである。
世界と日本の降水量比較
日本の年間降水量は1718mmと、世界平均の約2倍である。
山岳地帯の多い日本では、雨季シーズンや台風の雨は川に集まり高低差のある落差を一気に流れ落ちる | |
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錦川(にしきがわ)は山口県を流れる二級水系錦川の本流である。 支川を含めた法河川延長は331.8km、流域面積は884.2km2で、ともに山口県内では一番の大河である。 江戸時代・明治時代は洪水に備えて家の屋根裏に川舟を持つ家もあった
過去100年間の降雨
昭和初期からの錦帯橋下流、臥龍橋付近の雨量を示す。昭和25年(1950年)のキジヤ台風で錦帯橋は創建以来276年ぶりに流失した。
しかし、翌年の昭和26年(1951年)のルース台風で岩国市内のコンクリート橋は、鉄道橋以外全て流失した。
平成17年(2005年)の台風14号は、これより更に強力で錦川流域の2日間平均降雨量は414mm、羅漢山は517mmであった。 | |
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錦川の洪水
明治時代に気象庁がデータ収集を始めて以来、キジヤ台風並みの洪水は過去150年間で数回おきている | |
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水位局 | 臥龍橋 |
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住所 | 大字錦見3203 |
水系 | 錦川 |
河川 | 錦川 |
事務所 | 岩国 |
氾濫危険水位(特別警戒水位) | 5.30m |
避難判断水位 | 4.80m |
氾濫注意水位(警戒水位) | 4.20m |
水防団待機水位(通報水位) | 3.50m |
堤防高 | 左岸:9.10m(T.P.+9.91m) 右岸:9.60m(T.P.+10.41m) |
0点高 | 標高0.81m |
山口県土木防災情報システムより抜粋(2016年)
現在、錦川の堤防高は約9mを越えているが、堤防が整備されてない時代、 南桑・横山手前の仙石原、多田、川西などで頻繁に川の氾濫が起きた。大正14年の洪水(川西)
クリックで拡大昭和25年(1950年)、キジヤ台風で276年ぶりに錦帯橋の橋脚2基が崩落
錦帯橋を国宝にする案が国会で審議されていた時に、何ということか洪水で錦帯橋の橋脚が崩落した クリックで拡大翌年、昭和26年(1951年)年10月14日ルース台風の被害
キジヤ台風で流失を免れた錦川下流の近代的なコンクリート橋の愛宕橋、大正橋、臥龍橋、門前橋など鉄道橋以外全ての橋!が崩落・流失した。
前年の被害を上回り岩国市の復旧財源・復旧工事負担は甚大であった。ルース台風の被害は今だに語り継がれている
ルース台風による山間部の桑根村+河山村= 美川町の被害は以下である。
錦帯橋再建工事をしていた人が、流失した家屋の屋根に人が乗ったまま流されるのを目撃している
罹災者総数
(3,353+3,237 = 6,590)
死者(17+53 = 70)
行方不明(56+13 = 69)
重傷(9+50 = 59)
軽傷(370+102 = 472)
全壊戸数(210+236 = 446)
流失戸数(115+76 = 191)
半壊戸数(270+120 = 390
)
床上浸水(238+135 = 372)
床下浸水(5+125 = 130)
被害家屋(838+692 = 1,530
(山口大学農学部教授 山本晴彦氏調査論文より抜粋)
昭和35年(1960年)7月7日梅雨前線水害
錦川山間部、錦町上宮の串の被害写真である。
(山口大学農学部教授 山本晴彦氏調査論文より抜粋)
平成11年(1999年)年9月24日台風18号
錦川山間部、南桑の被害写真である。
(山口大学農学部教授 山本晴彦氏調査論文より抜粋)
過去最大、平成17年(2005年)の台風14号の被害
南桑・多田(藤川)で浸水があった。また、山口県岩国市廿木(はたぎ)地区の
山陽自動車道岩国−玖珂インターチェンジ間で、道路下の斜面が長さ50m、幅13mにわたって崩壊し、土砂が約20m下にある住宅2棟を押し流し、
1名は救助されたが3名が死亡した。
(撮影:読売新聞西部本社)。
押し潰された家屋の前の道路は、この付近の生活道路で、誰が巻き込まれてもおかしくない状況であった。
錦帯橋の第一、第五橋は柱橋で流木が堰きとめられているが、洪水が激しい時は柱が最初に外れる。
被害がルース台風より少なかったのは護岸工事や分流、鉄道橋並みの井筒構造を橋梁に施すなどで備えたためと
考える