西湖の挿絵

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岩国三代藩主、吉川広嘉公は中国 明からの亡命僧、独立が保有していた「西湖志」をみて、
橋のスパンが短くても島伝いに橋で跨げば出来ると閃いたと、言われている

 

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岩国の錦帯橋と西湖の錦帯橋は、見た目と構造が違う。 橋の構造がヒントになったのではなく、島伝いという構想が参考になった。
17世紀の日本では川の中に柱を建てないで川をわたる橋の技術は吊橋しかなかった。 中国の西湖は穏やかな入り江・湖で水中の柱が流失する事はなかったが、岩国の錦川は川幅約200mで激しい洪水が襲うので、川の中の柱は流失する。 中国の拱橋や石造アーチ橋の知識はあったと考えるが、スパンは短くて200mの錦川には架けられない。
そんな時、明の亡命僧、独立が三代藩主、吉川広嘉公に「西湖志」の挿絵を示し、スパンが短い橋でも島伝いに橋を架ければ大丈夫と ヒントを出した。

明の亡命僧、独立

dokuryu
→岩国ロータリークラブ編纂「独立性易」(石川会長より寄贈)
  • 西湖志と最近の西湖錦帯橋


  • 下記は、中国人民日報が西湖の錦帯橋について報道した内容です。

      (「人民日報」海外版1990年1月5日抜粋)

      「杭州の白堤は西湖の水面に横たわっている。東の断橋から西の平湖秋月まで長さ 1km、まるで一本の錦の帯が紺ぺきの水の上に浮いているようである。 白堤に橋が二本かかり、一本は「断橋」、あと一つが「錦帯橋」と呼ばれる。中国の人びとは断橋のことなら熟知しているが、 錦帯橋についてはよく知らない。

       錦帯橋はその昔涵碧橋と呼ばれ、唐代からすでに存在していた。 南宋になると、南宋の著名な画家李嵩が『西湖図』の中でここを描き、「湖山佳処」と呼んだ。 その後、湖水の浸蝕と、長年手入れをしなかったことから、白堤は崩れ落ち、この橋もなくなってしまった。 明の万暦17年(1589年)、司礼太監孫隆が白堤を修復し、「十錦塘」と改称した。 また涵碧橋の旧跡に木をかけて梁とし、修復後は「錦帯橋」と命名した。清の康煕年間には、地元の役人は康煕帝が西湖で舟遊びしたいと言いだしたため、 またもや石を切って橋をつくり、石橋となった。清の雍正8年(1730年)になると、浙江省総督の李衛が再度修復を加え、 橋は今日見るような形となった。」



      下記は風光明媚で知られる中国、西湖の「断橋」で、自然の風景と調和している。
    • 中国 杭州-西湖 断橋 清(17世紀)


    • 杭州市と岩国市は2004年に友好橋縁組を行い、2010年には両市の錦帯橋麓に友好橋記念碑を建立した

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