岩国藩の財政

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岩国市史 

岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集 
第二部 藩政時代の岩国
第二編 経済
   第五章 岩国藩の財政
p337〜p358

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  • 慶長五年(1600年)の関が原戦後、毛利本家は百十二万石から三十万石、吉川家は十四万石から 三万石に減じた。朝鮮出兵で莫大な出費があり貯蓄は底を突いていた上、徴収済みの貢租返納、 岩国での城郭・城下町建設費用・幕府への普請手伝いと、財政は窮地に陥っていた。 貢租返納は年賦払いで、慶長九年(1604年)返済した。
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  • 幕府からの公役は、伏見城の修理、江戸城、静岡城、丹波笹山城、尾張名古屋城と、絶え間なく続いた。 また江戸に藩邸建設、大阪冬の陣、夏の陣出兵と出費が重なり、岩国藩初期の財政困難は想像以上のものだった。 岩国藩の当初貢租は7公3民と重税であり、かつ上方商人から多額の借金をした
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  • 寛永五年(1628年)、京都の商人5人から銀390貫(4〜5億円)の借金があった。 承応二年(1653年)の収支
    領内総高 65,217石  蔵入 26,706石
    一、米 7,462石 (内訳は、消費 5,100石、売却用 2,362石
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  • 一、畑から現金納付 銀85貫982匁
    一、製紙業     銀86貫
    一、利子収入    銀15貫
    支出 281貫466匁
    経費   銀183貫
    借入返済 銀98貫466匁
    正保四年(1647年)、吉川広嘉が萩藩に納戸銀300貫目を無利息で萩藩に貸している ことから、岩国藩の財政が立ち直っている。 江戸普請手伝いと参勤交代の回数が減り、支出が減ったことも大きい。
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  • 江戸時代初期、参勤の費用は銀800貫から1000貫を要していたが、慶安以降は200貫から300貫と節約している。 享保元年(1716年)の藩収入は以下である
    一、領内総高 69,550石( 配米16,637石 蔵入13,193石)
      一、畑から現金納付 銀155貫793匁
    一、製紙業     銀1,405貫
    と、製紙業で膨大な収益を上げていた
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  • 享保年間(1716〜1734年)、吉川家は毛利の陪臣で家格が低く大名並みの叙勲を願い、 幕府要人に金7,880両、銀118貫の賄賂を贈ったが汚職事件として処分された。 この時期、幕府御家人が借金で身動きが取れなくなっており、吉宗は 享保四年(1719年)、「相対済まし令」を出した。金銭トラブルの民事訴状は今後一切 扱わない事になる。
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  • 吉川外記は出費乱費の悪癖が約12年間続き、製紙業で蓄積した貯蓄を使い果たした上、 銀4,000貫の借財を作った。更に納戸から銀2,670貫を返済不能にした。
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  • 享保年間以降、財政は困難を極め強度の倹約令が出た。 禄高に応じて馳走米を課せ五年ごとに倹約令を見直したが、江戸参府の費用も苦しく 利子の支払いだけで元本の返済が出来なかった。
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  • 延享四年(1747年)、吉川帯刀は更に厳しい倹約令を出した。
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  • 宝暦五年(1755年)知行地の取り分を5分5分にしたが、利子の支払いだけで元本の返済が出来なかった。 享保14年(1729年)大阪の鴻池又四郎が御用金の融通を申し込んだので大阪蔵屋敷の銀主に任命し、
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  • 金利引き下げ、利払いの繰り延べなど当座の遣り繰りを行った。 明和三年(1766年)、江戸参府と木曽川修堤の公役の費用、銀3,749貫目が必要になり
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  • 臨時徴収を行った。 明和の時代、製紙業の収入が減少して借金返済が出来なくなっていた
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  • 安永七年(1778年)には日光修復の公務が課せられ、更に水害の被害もあり重大な危機を迎えた。 天明元年(1781年)、借銀の利下げに成功したが翌年の江戸参府で銀1101貫を消費した。 天明七年(1787年)、関東川普請の公課割当があり金1万両を納付した。 寛政元年(1789年)、江戸参府で銀858貫を要した。 寛政六年(1794年)、江戸参府で銀787貫を消費した。
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  • 寛政十二年(1800年)、向こう5年間、利子の償還を断り、扶持米を渡すことにした
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  • 借金内訳
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  • この借金以外、多くの借金があったが償還・利払いを一時停止した
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  • 借金の総額は銀13,000貫あった。 寛政元年(1789年)、幕府は『御家人の借金問題』に対して棄捐令を年に出した。 この法律は6年以前の札差の貸付金はすべて棄捐(帳消し)にし、5年以内の貸付金は利息を年6分に減額し、 さらに以降の法定利率は、年利1割2分にするとした。
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  • 償還停止にすると、今後借り入れが出来なくなるが覚悟の上、決行した。 今後の借り入れのため辰巳屋だけは別格扱いにした。
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  • これ以上の借入れはしない心構えであったが、幕府普請手伝い上納金8000両を課せられたとき、 大阪で銀300貫目の借金を行った
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  • 寛政・文化の強行措置により立ち直りの気運にむかい、収支バランスが均衡した。 明治三年(1870年)、負債を整理して20年賦で元本を返済することにしたが、翌年、明治政府より 天保(1830年)以前の債務免除の達しがでた。 債務免除になった残元金一覧を示す
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  • 債務放棄になった負債は金74,445両(1両5万円として、約327億円)
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  • 寛政・文化以降、財政は好転したが、これだけ多額の負債が残っていた
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